鈴なり星

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狭衣物語23・狭衣、粉河寺での運命の出会い

 



この憂き世をただただ目的もなく生きている…そんな自分がみじめで、少しでも人生の道しるべを見つけようと、狭衣はある日、高野山にお参りしようと思い立った。
ごく親しい人にこっそりと御供を頼み、参拝する寺に献上する法衣・袈裟などの法服をたくさん用意する。明日には出発しようと決意し、父堀川大殿のもとへ挨拶に行った。
「鬱々とした気分がいつまでも晴れませぬゆえ、お寺詣ででもすれば治りますかと思いまして。明日は暦では吉日に当たりますので早朝になるべく目立たないようにして出発します」
突然、高野山参拝の話を聞いた堀川大殿は、
「どうして急にそのようなことを思い立ったのか。もしや高野山で出家する気ではないのか」
と涙を流して引きとめかねない勢いである。
「そんなことはご心配ありません。前もってお知らせすると、我も我もとお供の行列が大げさに騒々しくなりますので、ごく親しい人のみをお誘い申し上げました。高野山や粉川寺にはそれぞれ一夜ずつおこもりします」
「遠い旅は一大事、しっかりしたお供が少ないのでは、安全な旅などできないであろう。そなたが計画したことを、父である私が止めるつもりはないが、私が生きている間には決して出家などすることは許しませんぞ」
「私が出家するなど、どうしてご心配することがありましょうか。ただ、有名な参拝寺をめぐりたいだけでございます。それほどまでにご心配でしたら、いっそ参拝をとりやめましょうか」
そこまで言われると、堀川大殿としても中止させることなどできない。しかたがないので、自分の信頼できる腹心の者を数人、お供の列に加えさせたり、安全な旅ができるよう紀の守などに船の手配をさせた。
出発当日になって、うわさを聞きつけたあまたの殿上人たちが、「お供に」と押しかけて、門の周りは大変なありさまになっていた。
「申し出はありがたいが、なるべく目立たないように旅したいのです。それにあらかじめ身を清めて精進した生活をなさってないと寺詣でには行けませんよ」
そのようにお断りしたが、残った殿上人もかなりの数にのぼる。その残った人の中に、洞院上のもとに身を寄せていた伯の君という女人の息子が混じっていた。この息子は今は三位中将となっていて、常日頃から、他の誰よりも堀川大殿の信頼を得たいと思っていたのでまっさきに志願していた。そんなこともあって、狭衣もこの三位中将だけはむげに断る事も出来なくて、旅のお供の列に加える事となった。





11月の中旬ともなれば紅葉も散り果て見所など何もない。雪あられなどが風に混じり、ずいぶん心細い旅路である。
一行のために用意された吉野の川の渡し舟がたくさんあってそれらに乗る。冬の吉野川は水勢もにぶり、汀は冷たく凍っているので、浅瀬などは渡るのに時間がかかる。ようやく渡りきって一安心すると、心にも余裕ができて、狭衣はふと飛鳥井女君のことを思い出した。
この程度の深さでさえ水に飛び込むことなどおそろしくてたまらないのに、あの女君は海…どれほどの悲しみと絶望感で入水していったのか…と思いやる。数珠を持って水底を深く眺める狭衣の姿の清らかさ。澄みきった水の上では、狭衣の美しさはまた違った様相を見せている。飛鳥井女君のために法華経を声を出して唱え始めると、野山の鳥や獣も耳を立ててしまいそうな厳かさである。三位中将などは感動で泣き出している。



ようやく粉川寺に到着した。
松山の景色や谷川の流れなど、石山寺に似ている。修行僧など、身分のよろしそうな者も怪しい者もみな同じように参拝していて、ものさびしく勤行している姿が狭衣には少し羨ましく思える。
狭衣は一睡もせずに一晩中勤行するつもりだった。
心の中は悩みが募る。法華経を唱えていると、深山おろしの荒々しい風が音を立てて吹き、おのれの心に悲しく響き渡る。ただひたすらにお経を読み上げていると、荒くれ修行者も狭衣のしみじみ悲しい声に涙を流さずにはいられない。
今宵は皆、狭衣の誦経を聞きながら過ごそうと思っていたところ、夜半に突然、御燈(みあかし)のほのかな光の中に、普賢菩薩にも似た異形の御光が一瞬輝いて、そして消えた。
狭衣はうれしかった。今生で、人とは違った極めて優れた生を受けながら、常にもの煩わしさからぬけだせない情けない宿縁、そんな自分を普賢菩薩の御光が照らしてくれるということは、少しは自信を持っていいということなのか。
そんなことを考えながら、狭衣はうとうとと寝たり起きたりしながらお経をあげていると、向こうのお堂で、たいそう修行の年功を積んでいるであろうと思われる声が聞こえてきた。「いったいどのような素性の僧だろう」と使いをやって確かめさせる。使いの者が帰ってきて、「独眼の山伏と見受けられます」と返事した。その山伏を呼びにやらせて暁の月のもとで見たところ、山伏はひどく痩せていて、薄い袈裟一つのたたずまいである。
「あなたの声が聞き捨てがたくて。ここでお経をあげてくれませんか」
と三位中将が言うと、山伏は、
「このような高貴な方々の前でお聞かせするようなものは持ってはおりませぬ」
と遠慮しながら、しかしひかえめに誦経し始めた。すばらしく尊い声に、狭衣はしばしうっとりとなった。
この山伏に素性を聞いたところ、百日ほど参籠しているという。親たちが死んで後は、山の中の大木の根元が洞窟になっている所に暮らし、苔を寝床とし松の葉を食べ、虎や狼を友として生きているらしい。
「親は何という方でしたか」「これからどうなさるおつもりか」などの狭衣のお供たちの質問に困りながらも山伏は、
「私の親は、帥平中納言(大宰府長官と中納言を兼ねた平氏)と申しました。幼い頃に目の光を失いまして、親たちは私を比叡山の僧にさせるつもりだったらしいのですが、除目で筑紫に行くことになりまして、親たちが死んでからは、わたしはそのまま筑紫の安楽寺に住む事になりました。
妹が一人いましたが、乳母とともに行方不明になりました。筑前の守の北の方が縁続きにあたるものでございますから、その方を頼りにして京の都へのぼって参りました。
北の方に、私の妹が無事に京の都で生きていると聞いたのですが、妹に付き添っていた乳母というのがずいぶん冷淡な者だったようで、夫は主計頭もしていたというのですが、この乳母にずいぶんとつらいめにあわされたらしく、とにかく妹を窮地から救い出し、それから念願だった比叡山に上がるつもりで、ここで修行をしているのでございます」
と語った。
親が帥中納言、主計寮頭であった夫をもつ乳母。入水した飛鳥井女君の素性と一致するこの山伏の生い立ちに、狭衣は目の覚める思いだった。几帳の奥から飛び出してしまいそうな勢いで山伏の前に出てきて、
「もっと詳しく話して聞かせてくれないか。その妹御については、私もほのかに伺ったことがある」
と言った。貴人が自分の目の前に出てくる事に少々おどろいた山伏であったが、月影に清らかに映える狭衣の姿に、ただの貴人とは違う何かを感じ取った山伏は畏まって、
「救い出してのち、妹は我が身を厭う気持が強くて出家したがりまして」
と、全てを打ち明けようとはしない。そんなかたい態度の山伏の様子に、狭衣は続きが聞きたくてたまらない。しかしすぐそばには何も知らない三位中将が控えている。怪しまれるようなくどくどしいことを山伏に尋ねるのは避けねばならない。とにかく、飛鳥井女君は入水直前に救出されて生きているらしい。このことを聞いて、狭衣は心の底から安堵した。
「その妹御は、お子など連れていたのだろうか」
このことだけはどうしても知りたかった。しかし山伏は、
「聞いてはおりません。行方知れずで過ごしてきた長年よりも、出会えてからの方が悲しい事が多くございまして…ああ、すっかり話し込んでしまいました。お勤めをなまけてしまったようでございます」
と言葉をにごしながら立ち上がる。薄い袈裟に月影も透けて見えそうな痛々しい姿に狭衣は、
「ひとまずこれをお使いください。夜風が荒々しく吹き荒れていますので」
そう言って、自分の着ていた白くて柔らかな衣装を山伏に与えた。暖かで、狭衣の香ばしい移り香がいっぱいに薫っている。
「私は法師となって以来、紙衣や袈裟以外に着たものはございません。このような立派なものを粗末な僧衣に重ねることができましょうか」
と、山伏は衣装を触ろうともしない。
「お願いですから、そんなよそよそしい事は言わないでください。次に対面できる日までの形見だと思ってほしいのです。
私は長年出家の願望が強いのですが、世のしがらみからなかなか抜け出せなくて、未だ成就できずじまいなのです。あなたのような方に出会えたのも前世からの宿縁かもしれません。このまま私を仏道にお導き下さい、とお願いしたいくらいです。いや、ふざけた気持で出家出家と言っているのではないのです。
ところで、ここにはいつまでお籠りされる予定ですか?京にはいらっしゃるのでしょうね」
と狭衣が聞くと、
「都にあがる予定はございません」
との返事。この粉川寺でのお勤めもあと数日で終わり、その後は近江の湖(琵琶湖)の竹生島に渡るという。
こんな行方知らずの勤行の旅の山伏相手では、飛鳥井女君の消息はろくにつかめそうにない。狭衣はあわてて、
「私は今夜はここで過ごして、明日の朝出発する予定なので、そのときに今夜のお話の続きを伺いたいのですが。私はこのままあなたの弟子にしてもらいたいくらいの心地ですよ。これも前世からの因縁なのでしょうか。あなたは、私の心に深くしみとおる何かをお持ちのようだ」
など心を込めてかきくどくので、山伏もむげに立ち去る事もできない。
「では出立なされる朝に、拙僧が勤めに使っております法華三昧堂に、お越しください」
山伏はそう言って戻ってしまった。
狭衣はとりあえず安堵したが、山伏が戻ったあとも飛鳥井女君のことが気がかりでたまらない。
その後は仏前で飛鳥井女君のことばかりを考えながら、誦経の夜を明かした。
祈願の効験はどうであろうか。