鈴なり星

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狭衣物語10・狭衣との別れを決心した飛鳥井女君

 


訪問してみれば、狭衣の想像していたとおりで、飛鳥井女君は蔀もおろさず、端近に出て月をながめていた。そのたよりなさそうな様子に狭衣は思わず強く抱きしめて、逢えなかった時のあれこれを優しく語る。が、昼に見た源氏の宮の美しさを思い出し、
『源氏の宮とのことがかなえられないならば出家を、とも考えたのに、やはり、この人を見れば可憐で愛しく手放せそうにない。どうしてこんな縁を持ってしまったのだろう』
と後悔する。
「世間並みのこともできないような私だけど、あなたに出会ってから、どんどん心ひかれていく有様ですよ。もし、私が出家でもしてしまったら、あなたはどう思いますか。あなたに飽きられないうちに離れた方がいいんでしょうかねえ」
涙を拭いた袖が少し濡れたようすが月影に浮かび、そんな狭衣の姿を見ていた飛鳥井女君は、
『このお美しさ、まさか、この方は音に聞こえた狭衣さまではないかしら?きっとそう。でも、もしそうなら、私は狭衣さまのご寵愛をあてにできる身などではないわ。身分がまるで違うもの。飽きられないうちに離れた方がいいなんて仰るけど、私こそこの方に見捨てられる前に離れた方がいいのではないかしら』
と泣きそうになる。泣くのをはしたないと思ったのか、顔を袖で隠しながら、

『わずかにお会いするだけでこんなに恋しく思うのに、もうお目にかかれないのでしょうか』

と歌を詠む姿がなんとも可憐で可愛らしい。狭衣も、

『あなたを愛する心は決して浅くはないのですから、私たちの縁はいついつまでも途絶える事はありませんよ』

と詠みかえす。
「あなたには本当のことを打ち明けますよ。私はいろいろな人間関係から本意ではない結婚を強いられているのですが、たとえほかの女人と結婚しても、あなたに対する私の愛情だけは決して変わりませんから」
狭衣は、帝の娘女二の宮との結婚のことをほのめかした。
それを聞いて飛鳥井女君は、『私も、このような理由で陸奥へ行きますと打ち明けて、この方の様子を見てみようかしら』と考えたが、泣く泣く決心した東国行き、少しも行く甲斐のないところでもあり、何よりそのようなことを打ち明けるのはたいそうみすぼらしく恥ずかしい。『やはり黙って姿を消してしまおう、その方が、黙っていなくなるなんてあきれはてた女だなあ、くらいに思われて、すぐに忘れられてしまわれるに違いない』と考える。
しかし涙が止まらない。狭衣はそんな女君の姿を見て、かわいそうなことを打ち明けてしまったと、少し後悔した。



それからしばらくして、堀川大殿は故伯の君の娘を洞院の西の対の屋に迎えた。洞院上はたいそう華やかに、この今姫君にかしづいている。
この今姫君は御年二十歳で、ずいぶんおおらかでおっとりとしており、洞院上は『よい方をお迎えした』と喜んだ。
今姫君は、年の割にはあまりにおっとりとしすぎていて少し思慮分別が足りないのでは、と思わせるところがあった。この頼りなさそうな性質を心配していた実母の故伯の君も乳母も相次いで亡くなり、呆然としていたところを、母代わりの女と共に、洞院上に引き取られたのだった。この母代わりの女というのは、実母の遠縁にあたる女である。
あまりの急な環境の変化に今姫君はどうしてよいかわからず、ただ毎日ぼんやりしていたが、母代の女はそんな今姫君を大げさすぎるほど派手に世話し、そばにお仕えする女房がこっけいに思うほどもてなす。
長年、子供のいる坊門上や堀川上をうらやましく思っていた洞院上は、今姫君のことをそれは喜んだが、この母代の女の欠点が気になっていた。ひどい知ったかぶりで図々しいのだ。
堀川大殿のご機嫌伺いにやってくる公達が、今姫君の噂を聞きつけて、ここ洞院にも来る。ところが、このおかしな母代のおかげで、この西の対の屋は乱痴気騒ぎのめちゃくちゃになった。引き倒された几帳の向こうで今姫君は、このようなあさましい環境におかれたわが身がつらく、これも実の母君や乳母に死に別れたからだわ、と隠れて泣くようになった。が、表面上は何事も考えてはいないようにおっとりとすごしている。それを母代の女はバカにするようになった。



秋の除目の直しの公事で、狭衣の中将は中納言に昇進した。めでたい昇進ではあったが、父大殿は以前の天人来臨の事件を思い出し、これ以上の加官は不吉なことでもありはしないかと恐れ、中納言昇進をいったんは辞退したのだが、帝の「他の若公達に混じって、いつまでも同じ官にばかりおられようか」との意向により、昇進したのであった。
狭衣は、昇進の挨拶をするべく、まず母堀川上のもとに出向いた。
「どうして今上は、そなたの昇進を急がせようとなさるのかしらねえ」
と母宮はためいき顔だ。
次に、洞院上に出向く途中、噂の今姫君の住んでいる西の対の屋の前を通り過ぎた。狭衣は興味をそそられ渡殿から少しのぞくと、西の対は御簾が大きく膨らんで、はみ出た女房たちが丸見えで狭衣を見ている。狭衣はその様子に少しあきれていたが、やがて、狭衣が対の屋をながめているのに女房たちは気付いて、おおあわてで几帳をひっぱりだしてきて、ガタガタと音も大きく整えはじめた。いだし衣も乱雑で色目も合わず見苦しい。
几帳のほころんだ所からのぞく女房たちが「まあ、ほんものよ。やっぱりほんものはいいわねえ」「だれそれの少将やなにがしの兵衛督よりよっぽどいいわ」などと下品に騒ぎ立てている。
狭衣は顔が青くなりそうだった。一応挨拶すると、女房たちにたしなみがないのか、まともに口上できる者がいそうにない。だれひとり満足な挨拶の応対もできずにきゃあきゃあとやかましく騒ぎまくっている。あまりの狂態ぶりに狭衣は、もう今姫君には会わないで立ち去ってしまおう、と考えていると、奥のほうから、
「静かになさい。お付きの女房のたしなみで、姫君の人柄が判断されるのです。こんな女房たちは、うちには必要ありませんね」
と女房たちをにらみながら、母代の女が出てきた。
「狭衣さま。こちらにおでましとは珍しいご様子ですこと」
早口でてきぱきと口上する。
「いえ…どなたも私の相手をして下さらないので困っておりましたよ」
狭衣が柔らかくつぶやくと、母代の女は勝ち誇ったように、
「相手にされずに困るのならば、これからはこちらの姫君への対面を、まじめにお勤めなさることね」
と声も高らかに言う。
「今日は、日ごろの無礼を謝し、昇進を今姫君に見ていただこうと思って、こちらにやってまいりましたが、このように扱われるとは思いませんでした。
次も同じですと、私にも考えがありますね」
狭衣は冷たく言い放って立ち上がった。その時急に、御簾を吹き上げるような強い風が吹いて、几帳が倒れた。それを直すほど気のきく女房もいないので、その奥で寝ていた今姫君が丸見えになった。実母が亡くなっため、香染の内着のうえに鈍色の喪服を着ている。騒ぎで起きたらしい。狭衣と顔をまともに合わせてしまった。ぼおっとこちらを見ている様子に狭衣は、
『うわさどおり、ぼんやりした人なんだなあ。まあでも、女房たちに比べたらまだましか。しかし父君には少しも似ていないな』
と、まともに顔を合わせられたことに、悪い気はしなかった。


次の日、父大殿のところに出向いたおり、
「そなたはまだ、今姫君の御簾の内外に出入りはしていないのか?洞院上に『狭衣さまは、いまだにうちの今姫君をものの数には加えてくださらない』と泣きつかれたぞ」
と問われた。
「昨日お伺いしましたよ」
返事しながら狭衣は、昨日の西の対の女房たちの様子を思い出し、顔が笑ってしまいそうになる。そんな狭衣を見て父君は、
『どうやら洞院側がつまらぬことをしでかしたようだな。以前から、今姫君は私の子だという噂があったが、そのようなことは身に覚えがないものを、どこから聞きつけたのか、洞院が私の実子と間違えて…』
とため息をつく。狭衣は、父君に全く似ていない今姫君をみているので、
「まあまあ。洞院上も子供がいらっしゃらないので、お寂しかったのでしょう。しかし、世間のあちこちで父君の子と名指しで言われているのも、不憫なことでございます」
と言う。
「いや。私の子と言われ始めたのも、はっきりとした理由がないのだ。顔立ちは中務の宮の少将に似ているぞ。今姫君の痴れ者の兄は、『今姫君は中務宮の少将の子』と言っているが、かんじんの今姫君はおっとりしすぎた性質で、どっちだろうがかまわんのだろう。たまたま自分を迎えに来たのが洞院だったから、洞院の許に行ったのだろう」
父君はなげやりに言うのであった。



変わって飛鳥井女君の家である。
こちらでは乳母も従者もすべて出立するのに忙しく、誰も飛鳥井女君にかまっていられない。しくしく泣き続けている女君に乳母は、
「そんなに泣いて京に未練があるのでしたら、ここに独りで残ればいいでしょう。身寄りも無く、たったひとりぼっちになるのがかわいそうだからと思ってあげてるのに。あなたには通ってくる男君だっているではありませんか。それを黙って京から離れてしまうなんて、男君もかわいそうというものですよ」
などともっともらしいことを言う。実は、女君が一緒に陸奥についてくるのが乳母にはうっとうしくてたまらないのだった。乳母は常日頃狭衣の来訪が嫌で、来訪のたびにやれ門の鍵を見当たらないとか何とかで、なかなか開けようとしない。狭衣も、このような態度をとる家の者たちのことが嫌だったが、女君の魅力にはかなわず、宵に夜更けに折を見ては通う。
『今後この女君をどうしようか。父君に仕える女房として部屋を与えようか、いやしかし、もしこのことが源氏の宮に知られてしまったら。そうだな、しょうがない、飛鳥井女君が隠れ住む事のできる場所が見つかったら、そこに移らせよう』
など考えあぐねている。狭衣はまだ、女君の陸奥への出立を知らないのだ。
「乳母殿、私をそんなに憎まないでくれ。実は私には口うるさい正妻がいてね。その妻に知られたくないからこそ、こうやって素性がわからないように来ているのだよ。でなきゃとっくに素顔をさらしているとも。飛鳥井の君、あなたを心の底から愛しているのに、こんな私を見捨てるというのですか。ひどいなあ」
狭衣のそんな言葉に女君は、
『本心で言ってくださるのかしら。ああでも、乳母と離れて暮らしてゆくのはとても恐いことだわ』
と、以前よりもさらに思い悩むようになった。そんな女君の様子を、家の者たちは「ただ出立を嘆いているのだろう」と軽く見ていたが、やがてその沈みようが、実は妊娠していたからだ、とわかってしまった。乳母は、
「んまあ、なんてことでしょう。一刻も早くあの男君に連絡して、今後の処置を決めてもらってくださいな。あなたが一言言えば、いくらなんでもあの男君も、このままほったらかしにすることはありますまい」
とあわてた。身重の女君を陸奥に連れて行くなんて、と、迷惑そうな顔がありありとわかる。が、女君は、自分の口から身ごもりました、などと恥ずかしくて言えそうも無い。このまま陸奥の山道にまぎれて姿を消してしまおう、と思う。でも、子を授かったことを知らせないまま消えてしまうのは、いかにも口惜しいことだ、と女君は悲しかった。