鈴なり星

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狭衣物語18・狭衣、飛鳥井女君の消息を知る

 

 

それからしばらくして、筑紫に下っていた狭衣の乳母子である道成が、国司に任ぜられるとのことで、正月に京に上ってきた。
道成は狭衣に対面して、大宰府からの道中の興味深いことなどを、おもしろく物語る。
そのうち、入水した道成の女君の話になったが、どうもこの道成、この女君が狭衣の想い人である飛鳥井女君とは知らないような話ぶりである。
「昨年の五月に太秦にお籠りした際にかいま見した女でして。何とかして女の素性を知ろうとしまして後をつけてお供の童を問いつめましたところ、この女は、帥の中納言の娘であるということがわかりました。ふた親とも亡くなっており、女は乳母を頼りにしていたようです。
蔵人少将とやらが(素性を隠して通っていた狭衣のこと)時々通っていたようですが、私と乳母が示し合わせまして、筑紫行きの船に乗せたんです。
道中女は泣きどおしでした。近くにも寄れず、手も出せずじまいでしたよ。そのうち折れるだろうと楽観していたんですが…霜月(しもつき)の晦日(つごもり)、備前国の某港に停泊した際、家人たちが『誰かが海に落ちたぞ』と騒ぎ始めまして、それっきり行方が…狭衣さまが下さいました御扇を女に与えていたのですが、その扇に女の手蹟で最期ともとれる和歌が書き付けて落ちていたのです。どうもその、蔵人少将の胤を腹に宿しておりましたようで。最期まで抵抗されたのもそのせいでしょうなあ。私の方がずっと良いはずですのに」
道成のこの話に狭衣は顔色が変わるほどの衝撃を受けたが、表面上は強いて何事も関心なさそうにして、
「そうかい。それはずいぶん情の深い女人だったんだね。そこまでかたくなに想われるとかえってうっとうしいと、その蔵人少将とやらはうんざりしていたんじゃないのか」
と言葉少なに言う。
あの物忌みの夜、無理にでも飛鳥井女君を訪ねていれば、懐妊したことも知り、こんな後悔するような事態にはならなかったのに、と口惜しくてたまらない。もし知っていれば、たとえ女君の出自がそれほど高くなくとも、父大殿や母堀川上は、大喜びでその御子を引き取っただろう。どうして自分は、前途ある人を投身させたり出家させたり死なせてしまったり、様々な人の人生を目茶苦茶にしてしまうのだろう、これも前世の因縁なのか。しかし私の恋人と知らなかったとはいえ、道成が女を盗み出して、私を悩ませるのはやはり許せない――
後悔と、高貴な人にありがちな高飛車な思いで複雑な狭衣であった。


次の日狭衣は、
「道成、わたしがおまえに与えた扇を返しておくれ。女君がなんと書き付けたのか見てみたい」
と言った。道成は、「女の形見になってしまいましたので」と断ると、
「おまえとその女人の関係は、疎々しかったのだろう?強いてその扇を形見とする義理などないんじゃないのか?それとも何か?昨夜の話はウソで、その扇を偲んで泣くような間柄だったのかい」
と、さりげなくだが無理強いする。
「狭衣さまにウソなど申しません。『わたしと連れ添いたいのなら、今は手を触れないで欲しい』と女に言われたのです。誓って本当のことです」
と道成はあわてて言う。狭衣は、本当に道成が女君に手を出していないことがわかり少しホッとした。
道成が扇を返却して退出したあと、狭衣は端近くに出て空を眺めた。空が少し霞みがかって月がおぼろに見えるのは、涙があふれているせいか。
御前にはべっていた女房たちが下がったあと、狭衣は扇を持って月の光にあてて和歌を確かめる。涙の流れたあとのある文字。今を最期と海を覗き込んだ様子や心の内がありありと目の前に浮かび、悲しいという言葉も足りないほどだ。
『きっとこの扇がわたしのものと知っていたのに違いない。わたしの家来に連れ出されたと知って、どれほど悲しかった事だろう。哀れでたまらない。入水した場所を尋ねていったところで甲斐もないだろうが、せめて女君が飲み込まれた白波だけでも見てみたいものだ』
と願ったが、都の中でも思うままに外出できない不自由な身。光源氏の須磨配流でさえ今はうらやましい。

『もしわたしが海人だったら、大海にもぐって必ず女君を見つけるのに』

そんな気分だった。
そのためか、狭衣は以前のように道成をそばで召し使ったり相談事を持ちかけるような親しいそぶりを見せることも無くなり、道成は扇の返却を申し出る事もできず、なぜ急に疎まれるような事になったのだろう、と複雑な気持で過ごすのだった。





帝と故大宮の御子(本当は狭衣と女二の宮の子)である若宮の御五十日の祝いが近づいてきた。故大宮の服喪中とはいえ、どうして祝わないではいられようか。女二の宮の妹の女三の宮が、若宮を内裏にお連れして父帝に対面させる。もし、母である故大宮が健在であったなら、さぞ盛大にお祝いできたであろうに、と女三の宮は胸をつまらせた。
帝は若宮をご覧になり、「世の中にはこれほど美しい赤子もいたのだなあ」と、ご自分の晩年にできた御子だけに特別可愛らしく思われる。
「若宮の御母親がわりとなる二の宮や三の宮…二の宮は出家されてしまったが、女三の宮を狭衣に降嫁できたら。若宮の後見に、狭衣左大将ほどしっかりした人物はいまい。それに、狭衣がよその公卿の娘と結婚してしまうことは、口惜しいことよ」
狭衣をなんとしても身内に取り込んでおきたい帝であった。
五十日の儀式が始まり、帝が若宮のお口に餅を含ませる。目を覚ました若宮の笑う様子が狭衣左大将にそっくりなのを、帝は、
「狭衣は私と縁続きだから、このように似ることもあるわけだな」
と思われ、狭衣を召し寄せて、
「左大将。どうだねこの若宮の美しさは。まるで光をその身に持っているようではないか。妬ましいほどにそなたに似ているよ」
そう言って若宮の顔を狭衣の方に向けさせた。狭衣は、確かに自分とうりふたつの顔立ちの若宮に涙がこぼれそうだったが、めでたいお祝いの席での涙は禁物、心をこめたお祝いの言葉を伝え、御前を下がった。

狭衣は悲しくてたまらなかった。おのれの魂が若宮の袖の中にとどまってしまったように、可愛らしい若宮の面影が目に焼きついて離れない。くやしくて悲しくて、取り乱して倒れてしまいそうだった。

この五十日のお祝いの後、狭衣の頭から女二の宮のことが離れず、思いつめた事柄や他人には言えない事柄をこまごまと書き付けた手紙を、中納言内侍典侍を仲介にして女二の宮に渡してもらおうとしたが、二の宮は「私は出家した身。いまさら何を」と思い、中納言内侍典侍に対しても、よそよそしく扱うようになった。
中納言内侍典侍は、「宮さまにこのように冷たくあしらわれる身になり、口惜しくてなりません」と狭衣にこぼす。狭衣は、そのように思われても仕方ないことをしたのだから、と反省する一方、なんとかしてお逢いできる機会がないものかと懲りずに考えている。
「ああ、あの入水した飛鳥井女君が生きていたらなあ。身分が劣っていても、いつもながめて心を慰めることができるのに。いまさら言っても仕方の無いことだが…。
賢明な判断ができるような聡い心の持ち主ではなかったが、実に温かみがあって可愛らしい人だった。思慮の無い、浅はかな人だったかもしれないが、本当にそばにいるだけで安らげる人だった。懐妊していたと聞くだけに哀れでたまらない」
あれこれと思い切れない狭衣であった。