鈴なり星

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狭衣物語21・源氏の宮、堀川邸を巣立つ

 


三月になった。
入内の準備とうってかわって、今度は初斎院に入る準備に忙殺される堀川家である。
源氏の宮の入内を長年思い定めていた大殿であったが、この意外な変更に機嫌は良くない。堀川上は、自分がかつて斎宮になった時のことを思い出し、付き添いとはいえ、仏道からまた神域に立ち戻ることになってしまったと、やはり口惜しく思われている。
狭衣はといえば、入内こそせずに済んだとはいえ、まもなく神域に迎え入れられてしまう源氏の宮をあきらめきれないでいた。
今まで共に一つ屋根の下で暮らしていたときは、源氏の宮のいる対の屋に出向いては、苦しい恋心をほのめかしたりできた。いつも美しい姿を眺める事もできた。けれど斎院となられたら、そんなことさえできなくなる。
苦しい胸の内をくどくどと打ち明けられる側の源氏の宮としては、神意で斎院になることでかえってすっきりとしたようである。狭衣の気持を少しも知らないそぶりを通しているのが狭衣にとってはたまらなくつらい。
源氏の宮がいよいよ明後日から潔斎に入るという日の夕暮れ、狭衣は源氏の宮に逢うために対の屋に出向いた。


「源氏の宮。私は気の遠くなるほどの長い長い間、本当の心をを抑えて過ごしてきました。ところがあなたときたら、私を、あったこともない知らない人のように思っておられる。私はそれが口惜しくてたまらない」
一度口を開いて本音が出れば、もう我慢できない。
「よくも長年我慢ができたものだと我ながら感心しますよ。あなたが好きだ。好きなのだ。私が今まで抑えてきたからこそ、あなたは清らかな身のまま斎院になれるのですよ。もういいかげん私の気持には気付いておられるでしょう?あなたのその反応のなさに、私はどうしようもなくやるせなくなってしまうのです」
これほど思いのたけをぶちまけても、源氏の宮はただただ恐ろしい物を見るような顔つきで、その美しい瞳に涙を浮かべて狭衣を眺めているだけであった。
「…そうですか。そこまで私はあなたに嫌われているのですね。ただ一言のお言葉もないとは」
そこまで狭衣に言われて、思い余った源氏の宮が何か言おうとしたその時、衣ずれの音がしてドヤドヤと女房たちが入ってきた。いつのまにか夜の食事の時間になっていた。これ以上は源氏の宮を責め立てることはできない。狭衣は舌打ちしたい思いだったが、何気ない顔で立ち上がって退出していった。

これが、おのれの恋の運命。
将来の望みもなく、ただ胸に秘めるだけの恋の末路。
想い人が神の供物になるのは前世からの縁だったのか。
女二の宮に惑わされたのも前世からの因縁だったのか。
身分が違うとはいえ、飛鳥井女君が入水して二度と逢えなくなったのも前世からの因縁なのか。
形見となった扇を見るたび涙があふれてしまう。どうして私の恋は並みひととおりではなく、こうも複雑で悲しい結末になってしまうのだろうか。
本人にも行方がわからない恋に、打ちのめされている狭衣であった。



とうとう源氏の宮が初斎院移居の日がきた。
朝早くから、あまたの殿上人たちが堀川邸に集まってずいぶんと賑やかな出立となりそうである。見送る女房も付き添いの女房も、容姿・衣装の色目や匂いなど、並みひととおりでない美しさで、「ああこれが入内であったならどんなに晴れがましい事か」と口にこそしないが誰もが感じていた。
源氏の宮はといえば、少し光沢のある桜の織物の表着に色々重ねて着て、桜萌黄の細長、山吹の小袿など何枚も重ねてきているが、不思議とそれらをすんなりと上品に優雅に着こなしてゆったりしている。そんな源氏の宮を几帳のほころびから覗く人々は、「光る、というのはまさにこのことを指すのだわ」と大騒ぎである。
狭衣はといえば、源氏の宮の晴れ姿をまともに見れるはずもなく、部屋にこもって臥せっていたい心境だったが、父母などが心配してうるさく騒ぐのも面倒なので、用意をして皆のところへ行くと、源氏の宮…もう斎院と呼ばねばならないが、宮の姿をひと目見るなり、その美しさ可憐さとこれからは離れて生きてゆかねばならないと考えただけで、その場に倒れてしまいそうになる。
源氏の宮はそんな狭衣の恋心から一刻も早く離れて、身を清めて禊(みそぎ)をしたいものとばかり思いつめていた。
いよいよ出発の時間がきた。車が寄せられる。狭衣は、今生の別れがきたような気持になって、
「二度と逢えない。私も今宵のうちに出家して姿をかえてしまおう。私が姿を消してしまって誰が泣いたとしても、私のこの嘆きに比べられる悲しみなどあるはずがない。ああ、どうして今まで忍ぶ恋に甘んじてきたのだろう。望めばすぐにでも、いとも簡単に手に届くところに宮はいたのに。
我慢に我慢を重ねてきた結果がこれだ」
といくら後悔してもし足りない思いに打ちのめされていた。ふらふらと幽鬼のように源氏の宮のそばに立ててある几帳に紛れ込み、何も知らずに座っている源氏の宮の衣装の裾をつ、と引き押さえた。おどろいた宮が振り向くなり狭衣が強く抱き寄せる。

『今日さやはかけ離れぬる木綿襷(たすき)などそのかみに別れざりけん
(本当に私から離れていくのですか。斎院になることをやめようとは思わなかったのですか)』

扇を持っている宮の手に手を重ね、狭衣は泣きながら訴える。
「あなたの身の行く末を見届けるために、強いて出家を思いとどまっていましたが、もうそんな必要もなくなった。もう再びお目にかかることもないでしょう。今生の思い出に、「哀れな」とひと言だけでも仰ってください」
狭衣がかきくどいても、源氏の宮は、
(今はこれほど取り乱しておられる狭衣のお兄さまだけど、私が斎院になったら心が落ち着かれるに違いないわ)
と思うだけ。心を表す良い言葉が見つからなくて、美しい顔を曇らせるほかなかった。
突然、父大殿の声が近づいてきた。
「どうした。遅いではないか。大将(狭衣)はどこにいる」
その声に目が覚めたように、宮からさっと飛び退く狭衣。気は動転していたが、それでも背筋をしゃんとのばして冷静な顔で、もとの御供の列に加わった。


やがて禊所に到着し、初斎院のもとに賀茂神社からの宮司が参上して、しきたりどおりの禊を行う。青々とした榊を斎院御所内の井戸や寝殿などあちこちにさす様子が、いかにもわずらわしい作法に見える。狭衣は、一刻も早くこの場から逃げ出したいと思っているのに、
「大将が、斎院の潔斎の間、宿直所にいつも伺候してくれれば、これほど安心なことはないだろう」と父大殿が言う。
「私の気持も知らないで、よくもまあそのようなつらいご命令をなさるものだ。もし私が今宵のうちに出家して様変わりしたらどれほどお嘆きになるだろうか」
狭衣は一方では出家を決意しながら、また一方では姿を変えることで生活が一変してしまうことへのおそれも残っていた。こんな気持のままでは、たとえ出家して野にさすらうとも山にこもろうとも心は迷うに違いない、と。