鈴なり星

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小夜衣29・悲しみの衝撃、走る

 

 

泣き疲れ、少し落ち着いたころ、乳母がふっと思いつきました。
「もしかすると、東雲の宮さまのしわざでは?宮さまと姫さまは、内裏では一度も対面する機会がなかったはずでございます。逢いたい逢いたいと思い詰められた宮さまが、姫をさらってどこかへ隠してしまわれたかもしれません」
「まさか、あんな立派な方が、そんなけしからぬ事を思いつかれるかしら」
尼君はそう思いましたが、とにかくどんな可能性でもいい、姫の居所を捜して、わらにもすがる思いで宰相の君(宮と姫を最初に取り持った女房。宮の姉君中宮付き女房)に連絡を取りました。宰相の君は連絡を聞いて、あたふたと山里の家へやってきました。姫の失踪を知り、驚いて言いました。
「姫が行方不明など、にわかには信じられないことですわ。宮さまのご様子ですか?宮さまは何もお変わりありませんわ。毎日毎日、逢えない姫さまを想ってため息をついておられます」
とは言うものの、実は裏でこっそり何か細工して、表面上のみ泣いて取り繕っておられるのではないか…万が一ということもあるので、宰相の君は東雲の宮の住む院邸へ戻りました。もちろん東雲の宮にとって、姫君失踪など寝耳に水です。
「この私がそんな浅ましくも愚かな行為をするはずないだろう!あの可憐で華奢な姫に、無分別なふるまいをするほど私は落ちぶれていないぞ。愛しい姫のいやがる無礼なぞ働けるものか。それに第一、私は姫に見捨てられた身なのだよ。今さら姫と、どうこうできるものでもない」
と声を荒げて驚いています。しかし、心の中では、
(ひょっとすると宮中で情を交わし合う人ができたのか?ああ、ついにこの身は完全に見捨てられたらしい)
とすっかり自信を失ってしまいました。
「姫が行方不明になって、尼君はどれほどお嘆きか。お見舞いに伺ったほうが良いね。だが姫の居ない家を訪ねたところで、私にとっては何のなぐさめにもならないよ」
あれこれ思っても、なすべき手立てがないのですから、とにかく詳しい事情を聞くべく、夕暮れを待って、東雲の宮は山里の家へ出かけました。



早春の野辺の道を、枯れ草を踏み踏み進んでゆく東雲の宮の一行。春とはいえまだまだ寒い山路ですが、草木から芽吹く緑が目を和ませ、あちこちに見える梅の木にも鮮やかな花が咲き乱れています。鶯がさえずりながら枝から枝へと飛び回り、山里の家へ道案内してくれるかのよう。鶯の初音につられて宮の涙もこみ上げて来ます。
姫が居た頃と何ら変わりのない、なつかしい家へ到着しました。尼君に対面しても、まず涙、涙で互いに言葉を詰まらせるのでした。
「すっかり老いで呆けてしまいましたのに、身を切られるような悲しみを味わっております。姫が行方不明になって以来、ずっと臥せっておりましたが、宮さまのお越しと聞き、そのお志もありがたく、ようやく起き上がることができるように…ううっ」
東雲の宮の顔を見た途端、張り詰めていた糸が切れたように、声を震わせて泣き始めた尼君でした。
「夢であって欲しいと願うような信じられない出来事を耳にしましたので、尼君のご心痛は如何ばかりかと…言葉をかわす事こそできませんでしたが、同じ内裏に暮らしているのですから、いつの日か必ずやとゆったり構えていたのが浅はかだったのでしょうか。こんな事態となって、何も考える余裕などありません。片時も忘れる事のできない姫ですのに」
と姫が対の御方として後宮に入った頃からの出来事を、少しずつ話し始める宮でした。宮の話を聞きながら、尼君は、
(こんなに真剣に愛してくださっているのに、どうしてこの家から姫を手放してしまったのだろう。悲しい事件に巻き込まれるくらいなら、身分が体裁がと言い訳せずに、この宮さまに姫の全てを託してしまえばよかった)
と後悔する事しきりです。
「命が永らえたばかりに、こうも悲しい目に遭ってしまいました。姫は今、どこで何をしているのでしょう。それを考えると、居ても立ってもいられず…」
とむせび泣きする尼君でした。
「尼君、まったく心当たりはないのでしょうか?どんな些細な手がかりでもいいのです」
「乳母たちとも話したのですが、まったく見当もつきません。出た話といえば、昔話にありがちな『なさぬ仲の継母のしわざ』くらいしか…」
あれこれ話しているうちに、月もしだいに傾いて夜も更けてきましたので、宮はお帰りになります。家を出ると、紅梅の匂いがあたり一面に満ち、鶯のように立ち去り難い心地です。家の中では女房たちが、外から吹き込んでくる梅の香と宮の薫物の香の混じった夜風に、悲しいながらもうっとりするのでした。
まだ夜明けには少し間がありますが、かつて姫と共に過ごした夜明けを思い出し、じっと空を眺めていると、涙がとめどなく流れます。


行きかへり 幾度(いくたび)袖を 濡らすらん はかなくむすぶ 露の契りに
(この家に何度来て、そして何度袖を涙で濡らしたか。露のように儚い契りのために)


姫への想いをこめて詠む東雲の宮。自邸へ到着しても、とてもまどろむ気になれず、端つ方に座って呆然としたままです。万感胸に迫り、ただひとえに、
(姫の失踪は覚悟の上の出奔…かけおちだ。私は姫に捨てられた、私は姫に完全に見限られたのだ)
とばかり思い込んでしまっているのでした。
(同じ内裏に居る者同士、いつかはきっと再会できることだけを信じて今日まで生きてきたのに、その望みも絶たれた。どんな男だって姫をひと目見たら我がものにしたくなる。不埒な輩が姫を隠したに決まってる)
もう姫には二度と逢えないかもしれないと想像するだけで、生きる希望も何もかもが消える宮なのでした。


さりともと また逢坂を たのみにし おもひたえぬる 関の関守
(いつかきっと逢える、そのことだけを生きがいにしてきたのに、逢坂の関の番人に打ち砕かれてしまった)


いつかきっと逢える、再び心が通じ合う日が来る…淡い期待で過ごした日々が、まさしくつぶやいた歌のとおり、何者かの手によって無残にも断たれてしまったのでした。


対の御方(山里の姫)の身辺が大騒ぎになっている頃、何も知らされていない今上も嘆いていました。
対の御方の姿が見当たらないので退屈でどうしようもなく、耐え切れずに、
「御方はどうなされたのか。姿が見えぬが何かあったか?」
と側近の者に訊ねます。
「ご実家の祖母君の病状の悪化で、昨夜あわただしく退出なされた、との事でございます」
側近の返事に、「ああ、おいたわしい事だ」とは思うものの、自分の目の届くこの内裏から、ほんの少しでも御方の気配が消えることが今上にはつらくてなりません。初めて逢ったその日から、恋に堕ちた今上なのです。朝起きれば逢うのを心待ちし、夜は寝苦しいほどの想いを抱えて眠れないというのに、実家の都合とはいえ、宿下がりでしばらく逢えないとは…と、心底がっかりしてため息をつく今上なのでした。