鈴なり星

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狭衣物語15・しでかした現実から逃げる男

 

 

女二の宮の宮中退出の話を聞いた狭衣大将は、いてもたってもいられず、中納言典侍のもとへ出向いた。
「とにかく一度でいいからお会いしたいんだ」
という狭衣の真剣な様子に中納言典侍は、
「いまにも消えてしまわれそうな弱りようですので、大宮さまが夜も昼もつきっきりで看病されておいでです。手引きできるようなスキなどございません。それに、大宮さまは女二の宮さまのお相手が誰なのか、不安に思っておられます。
原因はあなたさまにあるとそれとなく匂わせれば、状況も変わってくると思いますが」
と言ってみたが、狭衣はそれでもあいまいな態度を崩そうとしない。
しかし、思い乱れているさまをみかねた中納言典侍は、狭衣さまはいいかげんな気持ちで女二の宮に近づいたのではないのだと強いて自分に言い聞かせた。
「女二の宮さまのご病気は、ひとえにあなたさまへのご心痛からです。それなのにあなたさまは真実をあいまいにして、真面目に向き合おうとなさらない。とても悲しゅうございます。こんなことであれば、お渡しくださったお手紙を人目にさらしてしまえばよかったと、心底思います」
激励するつもりでそう言うと、狭衣は、
「手紙を暴露するなどおどかさないでおくれ。後生だから。
でもね、あの懐紙を落としたのが私だと大宮さまに思われたら、さらに私のことを気に入らなく思われるだろうなあ。そうなったら、結婚の望みもなくなりはすまいか。とにかく頼むよ。私は女二の宮を恋うているのだから、どうしてお目にかかれないことがあろうか」
最後の言葉はゴリ押しとも取れた。中納言典侍は、複雑な気持ちだった。



大宮と女二の宮一行は、実家の邸に到着した。
長年手入れされていないその邸は荒れており、池も水草が生えて、すっかり古びてしまっていた。
とりあえず人が生活できる程度に邸の中を片付け、落ち着くことはできたが、しばらくすると大宮も心痛から倒れてしまった。娘の二の宮と同じように気分がたいそう苦しくなり、柑子さえも喉を通らなくなった。
娘を見捨てるかのようにもし私が死んでしまったら誰が娘を守るの…そう思いつめながらも大宮はどんどん弱っていく。
そんな母宮の様子を見て、女二の宮は、
「私のせいでお母様までこのようなありさまになってしまわれた。先に私が死んでしまいたい」
と自分を責める。


邸の中はこのように暗い毎日であったが、乳母の一人がたいそうよい知恵を思いついた。
「まだ独身であられる女二の宮さまの醜聞が漏れ出るよりは、いっそのこと、大宮さまが帝の御子を身ごもられた、という事にしてはいかがでしょうか」
この提案にはたいそう驚いたが、大宮のお体も弱りきっていることでもあるし、今はどんな小さな可能性にもすがりたい。さっそく内裏にそのように報告すると、帝はたいそう驚いたようである。大宮は今年43歳になるが…。
ともかく、冬頃出産予定だと報告した。大宮と二の宮は、乳母たちとごく一部の女房たち以外、姿を見せることなく看病されている。
女二の宮は、この計画がもし公に知られてしまったらと、たいそう恐ろしく思う。そんな娘の様子を見て、母大宮は、
「いったいどのような卑劣な男が、高貴な我が娘をここまで苦しめて知らん顔しているのか。娘を少しでも愛しいと思うなら、ここまで無視してよいものか」
と前世からの因縁をあさましく口惜しく思っていた。



このように心細い毎日を大宮たちは送っていたが、ある日、門の外が騒がしいのを聞いていると、なんと狭衣大将の訪問であった。
大宮は、心細く寂しい里邸住まいを気遣ってくださった堀川大殿の気持ちをうれしく思い、わざわざ御座近い御簾の前に敷物を差し出して、病身ながら狭衣に直接声をかけた。
「ようこそお越しくださいました」
狭衣が身じろぎすると、さっとよい匂いがあたりに漂う。焦げるばかりに真紅で艶々した紅葉重ねの直衣に、竜胆の二重織物の指貫という容姿、まるで龍田姫が自ら染め出したような美しさである。
中納言典侍が対面を取り次ぐ。
「ご無沙汰しておりました。父大殿にいつも参上せよと言われていたのですが、私も体の調子が良くなかったものでして。
大宮さまはご懐妊ということで、当然案じられるお身体でありますが、女二の宮さまのご病気こそは何とも申しようもなく心配しております」
「娘より先に身まかりたいと気はあせっていますが、どういうわけか、今までこうして生き長らえておりますのも、堀川殿のありがたいご親切のおかげでございましょうか。
私の死んだ後、もしこの世にとどまる者(生まれる御子)がございましたら、どうか見捨てずお世話ください、と堀川の上にお伝えくださいませ」
あの逢瀬以来、この親子をずいぶん長い間苦しませてしまった、と狭衣は居ても立ってもいられないくらい女二の宮に逢いたくなった。
しばらくすると空模様が急に悪くなり時雨が降りだした。木枯らしに色とりどりの紅葉が散っていくのを見ながら狭衣が、

『時雨と共に降るような、おびただしい涙であることよ』

と詠むと、中納言典侍は、

『因果応報ですわ、時雨と共に袖を濡らせば秘密も漏れてしまうのでは?』

と答えた。


出雲という名の乳母が、この歌を聞きとがめていた。


狭衣はしばらく女房たちと話した後帰っていった。女房たちは「ああ、ほんとうに天人が誘ってもおかしくないお美しさですわ」などなど、口々に狭衣をほめたたえた。





大宮が報告した出産予定日が近づいてきた。
しかし女二の宮のお産の兆候はまだない。
帝からのお使いが矢のようにやってくる。
帝のご心情と妊娠騒動の重圧とで、大宮は命の火も消えそうなほどの弱りようだ。
数日後、ようやく女二の宮にお産の兆候が現れ、ほどなく男御子が生まれた。心配に気も動転していた乳母たちだが、とにかく、
「大宮、男皇子ご出産」
と宮中に連絡する。
祈祷の効験があったのか、後産なども無事すみ、乳母たちもほっとした頃、内裏や堀川大殿からのお祝いのお使いがどっとやってきて、大変な騒ぎになった。大宮がいかにも皇子を生んだように仕立て、女二の宮を屋敷の奥深く隠す。
大宮の様子を聞いた帝は安堵し、慣例通りの儀式がおごそかに行われた。
大宮側もこの数ヶ月もの間悩ませていた心配事がとりあえず消えて、ようやく気が晴れる思いだった。大宮の具合も快方に向かう。
だが。
生まれた御子の顔立ちが、どう見ても狭衣の大将に似ているのだ。
大宮は、
「まあなんと思いがけない事よ。この御子の顔立ちは狭衣の大将そっくりですね。これほどまでに私たちを苦しませて知らん顔をしていた男が、まさかあの大将だったとは。
なんて、なんて薄情な」
と心の底からいまいましく思う。
以前お見舞いにやってきたときの、狭衣と中納言典侍の和歌のやりとりが思い出される。出雲乳母も、
「ますますあの歌を口ずさんだわけがわかりました」
と憤慨している。大宮は、
「中納言典侍が手引きしたのがそもそもの発端かもしれない。きっと女二の宮が懐妊していたことも知っていたはず。私たちの画策も知られているに違いない」
と、恥ずかしく口惜しく思う。
この何ヶ月かの間、幾たびも親切に見舞った堀川家の好意が、狭衣の薄情さに消えてしまった。


中納言典侍は、
「お二人は御子をもうけるほど深いご宿世なのに、狭衣さまはどうしてひたすら隠し続けるのだろう。堀川大殿が、どのような賤女でもよいから狭衣の子がほしいと仰っておられるのに。このことを聞けばどれほどお喜びになることか」
と、狭衣そっくりの御子を産湯に入れながら考えていた。同じく産湯の介添えをする出雲乳母に、
「他人の空似でしょうか。この皇子さまは、だたもう狭衣の大将さまにそっくりにお見えあそばします」
と言えば、出雲乳母は、
(まさか中納言典侍が事情を知らないはずあるまい。狭衣さまを宮さまのもとに手引きしたのは、ひょっとするとあなたなの?)
と、とぼけたフリをする中納言典侍を怪しく思った。出雲乳母は、
「さあ。高貴なお方同士は直接血筋がつながらなくとも品格が似るといいますから」
とあいまいに答えた。