鈴なり星

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狭衣物語14・女二の宮、婚儀前の懐妊発覚

 

 

「お待たせいたしました。少々風邪を引きまして、今まで休んでおりました」
「昨日の晩も、君に会いに行ったんだけどね。見放されたかと思ったよ」
「申し訳ございません。でも狭衣さま、御降嫁の件もだんだんと具体的になってきておりますのに、いつになったらお気持ちをはっきりとしてくださるのですか。これ以上理想的な縁談はございません」
「さあてね。私はこの世にこれ以上生き長らえそうになくてね。とても現実的な話とも思えないよ。もっとも、父君などは私のこんな考え方を、ひねくれものと見ているようだがね」
「あなたさまのお心次第ではございませんか。どうぞお気持ちをしっかりと持たれて、御降嫁の話、前向きにお願い致します」
昨夜の出来事を何も知らない中納言内侍典侍は、狭衣が、ただ己の人生が短い予感のことを考え降嫁をしぶっているだけなのだ、と思っていた。
「行く先のはかなさなど、そんな聖僧のような言葉はおっしゃいますな。女二の宮さまのお姿をご覧になったら、そのような固いお心も溶けてしまいますとも」
「君にそんな風に吹き込まれると、意固地な私も心変わりしてしまいそうだなあ」
そういいながら狭衣は、懐から手紙を取り出した。
「本当はね、この手紙を持ってきたんだ。ごく内密に差し上げてくれないか。大宮さまには見せないように。私の手蹟をあなどられるのが恥ずかしくてね」
「ま、ご冗談を。でも大宮さまにもお見せしても、具合の悪い事は何もないと思いますけれど」
「いやいや大宮さまになんと思われるか考えただけでも恐ろしい。どうかこっそり女二の宮さまだけに渡しておくれ。見終わった後は必ず破り捨ててほしい。必ずだ。頼むよ」
中納言内侍典侍は、どうして狭衣がここまでこだわるのか不思議だった。
「実を言うとね、君がいつもいつも私に女二の宮さまの美しさを宣伝するものだから、ほんのちょっとの垣間見でもできたらと思ってね。お会いしたらこの世にもう少し長くいてもいいんじゃないか、と希望がわくかも知れない。もし不都合がなければ、今夜にでもお会いしたいのだけど」
狭衣がいつになくあせって言うので、中納言内侍典侍はとうとう結婚する気になったかと、うれしく思ったが、
「困りますわ。ご結婚もなさらないうちに、顔なじみになられるなんて。それにお相手は皇女さま。垣間見など不可能でございます」
と言う。

『逢坂をなおゆきかへりまどへとや関の戸ざしも堅からなくに』

もうとっくに逢っているんだけどな、と狭衣は内心手薄な警備を侮る。


「まあ、機会があったらでいいから」そういいながら狭衣は帰っていった。
中納言内侍典侍は『関の戸ざしって何かしら、おかしなお歌だわ』と不思議に思った。



女二の宮はまだ放心状態でいた。そばで母君が呆然と娘を見ている。
その異様な光景を几帳のほころびからのぞいた中納言内侍典侍は、「おかしいわ、なにかあったのかしら」と不審に思う。
今まであれほどいやがっていたのに、急にお手紙をくださった狭衣さま。それにあの『関の戸ざし』のお歌。
ひょっとしたら。
ああ、このお手紙の中味を見ることが出来たら。
こんな沈んだ雰囲気の中で、何も考えずに先ほどのお手紙を渡したら、不都合なことが起こるかもしれない。それに、手引きしたのが私だと大宮さまに誤解されるのも困る。
とにかく今はこのお手紙を見せてはいけない。そう自分に言い聞かせて、中納言内侍典侍は二人の前にすすんだ。


「昨夜までなんともない様子でしたのに、にわかにご気分が悪くなられたようなのです。気分がもとに戻られたら、私の部屋までおいでになるように」
そういい残して、大宮は帰っていった。
女二の宮は黙ったままである。そばには狭衣の香りが移った懐紙が置いてある。この様子を見た中納言内侍典侍は、昨夜何が起きたのか、すっかりわかってしまった。
手引きもなしにどうして逢えようか。しかし手引きの者がいれば、こうして私に手紙を託すなどしないはず。
「宮さま。今朝狭衣さまが、このお手紙を差し上げよと、お渡しくださいました。お断りすることもできませんで」
とそばに手紙を置いた。
「…見たくありません」
昨夜のことを、狭衣はこの中納言内侍典侍にすっかり話して聞かせているだろうと、女二の宮は恥ずかしさのあまり死にたい気持ちになる。
この手紙を大宮に見せさえすれば、少なくとも忍び込んだ男の素性の事で、大宮が頭を悩ます事はなくなる。
でも…。
と中納言内侍典侍は、この事件が自分の責任のように思えて仕方がないのだった。



『あれほどうとましく思っていた女二の宮との話なのに、どうして自ら危ない橋を渡るようなマネをしてしまったのか』
自業自得とはいえ、狭衣はくよくよと悩み続けていた。
いても立ってもいられず、中納言内侍典侍のもとへ手紙を書く。
『今朝頼んだ手紙の一件はどうなりましたか?そのことばかりが気になって。今宵、女二の宮にお逢いできるでしょうか』


中納言内侍典侍から返しがきた。
『お手紙の事は申し上げましたが、さあ、どうなりましたことやら。どうやら、あなたさまは恋の道は知らないとおっしゃりながら、逢坂の関までも尋ね入ってしまわれたようですね。実は…』


それを見て、言い訳の出来ぬことを知られたものよ、と狭衣は苦笑いする。
女二の宮がどうなっているのか気になるが、中納言内侍典侍に知られてしまった以上は、強いて逢わせろ、とも言えない。
源氏の宮のことをいくら愛していても、しょせん結ばれるはずもなく、かといって女二の宮に気持ちをすりかえられるはずもない。
狭衣自身、あの仮寝の一夜はかえすがえすもまずかった、とひどく後悔していた。
その気持ちから逃れるように、飛鳥井女君のことを思い浮かべる。
あの女君はいったいどこへ行ってしまったのだろう。思いがけない突然の別れ。さよならを言う事も出来なかった女君の姿が鮮やかによみがえる。
そんな想いにひたっていても、降嫁の件からは逃れる事は出来ない。女二の宮との仮寝のとき、白い懐紙を取り落とした事に気がつかなかったとは。
せめて落としてさえいなければ、どうとでもごまかす事ができたのに。


これほどまでに身勝手な想いを抱きながら、狭衣は仮寝の誘惑に勝てず、ときおり幽霊のように弘徽殿に現れては、女二の宮のもとで一夜を過ごして行く。


そんな狭衣の思惑とは関係無しに、女二の宮との婚儀は進められていった。
帝も、
「婚儀の準備に、あなたが心忙しくされないのはいったいどういうことですか」
と大宮を責める。
大宮は、あの夜忍び入ったのが狭衣だとは知らない。知っているのは中納言内侍典侍のみ。
「婚儀の話が持ち上がっているというのに不覚にも男に忍び込まれるなんて。娘も動揺しているし、何より堀川家に申し訳が立たないではないか。いっそのこと、この婚儀の話が取りやめになってくれればいいのに」
と大宮は思った。





冬が去り、やがて三月になった。
悩みがちに泣き暮らしていた女二の宮がひどく苦しむようになり、日に日に食が細り弱っていった。いったいいかなるご病気かと、大宮や帝はたいそう心配する。すっかりやせ衰えてしまった女二の宮であるが、乱れた毛筋もなく、ぬけるような肌の白さがかえって上品に見える。
苦しそうにあえいでいる愛娘を看病しながら、大宮は、ふと二の宮の乳が黒ずんでいるのに気がついた。
まさか、これは妊娠しているのでは?
ああ、それならすべて合点がいく。
忍び込んだ男の話は、大宮が自分の胸ひとつにおさめていたのだが、身ごもったとなれば、もはや黙っているわけにはいかない。
女二の宮の乳母たちを呼びつけて言った。
「このような事態になって。
おまえたち、どうして今まで私に知らせなかったのですか。男が忍びこんだことを、よもやおまえたちが知らないはずはありますまい」
突然告げられた事実に、乳母たちは驚き乱れ、ただ何も申し上げられずに泣き入っている。
「体調がよろしくないのは物の怪のしわざとばかり」
「宮さまは、よく月のものが狂うことがございましたので」
「女房たちに何か事情を知っている者がいるかもしれません。思慮の浅い下級女房などが手引きしたのではございますまいか」
など言い訳するのも聞き苦しい。
「尊い身分で、相手が誰なのかさえ分からないなんて情けない。しかも腹の中に子までできようとは」
と嘆く大宮の顔に押し当てられた袖口がみるみる濡れていく。
「こうなれば、今上に知られるより先に、何としても宮さまを宮中からお出し申し上げてしまいましょう」
と乳母が言う。
母の大宮や乳母らが思案していると、なんとも間の悪い事に、帝のお渡りが告げられた。女二の宮はつわりで息も絶え絶えであるが、なんとか帝に気付かれてはならぬ、と大急ぎで厚めの衣装をお着せになって腹の異常を隠す。
「よろしいですか。間違っても身ごもっていることをお気づかせにならないように」
と母宮は娘にささやいた。
まもなく帝がお渡りになった。


「御気分はいかがか。ずいぶん具合がよろしくないように見受けられるが。祈祷などはきちんとしていますか」
など、たいそう心配して、女二の宮にやさしく問いかける。
ぐったりとしている女二の宮であるが、よりかかる黒髪の光沢がたとえようもなく美しく見える。
これほど心配してくださるのに、もし娘の懐妊など聞こうものならどのようにお怒りになるだろうか、と大宮は考えるだけで悪寒が走った。ともかく今は懐妊を知られてはならない。
「効き目が確かではないようですので、もう少し広くゆったりした所で養生させてみてはいかがでしょうか。きっとご気分もよくなると思うのですが」
と大宮が言うと、帝は、
「退出などすれば、しばらくお会いできなくなるではないか」
とため息をついたが、やはり女二の宮の健康にはかえられず、母大宮の実家に移ることになった。