鈴なり星

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狭衣物語11・乳母のたくらみ

 


狭衣の乳母子に道成という名の、式部の大夫でなかなかの色好みがいた。次の除目でどこかの国の守になる予定で、世間でも評判がよい人物である。この道成自身、常に「美しく、すぐれた女人をさがし出してみたいものだ」と言って、彼をぜひ婿にという声には耳を貸さず、いつも我が君狭衣のマネをして、狭衣の夜歩きにもまめに付き添い、宿下がり中の女房にちょっかいを出したりしていた。この道成が、あるとき飛鳥井女君の姿を覗いてしまい、あまりの可憐さにすっかり心を奪われ、手紙などを時々出していたが、この手紙の内容を飛鳥井女君の乳母がたいそう気に入ってしまい、
『あなたさまが、除目でどこかの国司になってくだされば、喜んでお婿さまにお迎えしてもよいのですけど』
など返事を書いていた。道成が、
「自分の父親の大宰大弐を任地まで送るのに、筑紫まで行きます。その際に、妻として一緒に筑紫に来てくださいませんか。来年どこかの国司となりましたらば、そのまま任国へ連れて行きたいのですが」
と提案すると、乳母は大喜びで、
「それはたいへん結構なお話で。あんな頼りにもならないような男君のかくし妻になるよりは、きちんとした妻として扱われた方がずっといいに決まってます。では、さっそく女君にこのことをお知らせいたしましょう。筑紫に行かれる際に、女君を迎えに来てくださいな」
と返事をした。乳母は陸奥への出立のただ一つの悩みだった女君の処遇が決まって大満足である。腹の子など、どうとでもなるだろう。女君はそんな乳母のたくらみにまるで気がつかない。
道成が迎えに来る直前、乳母は女君に言った。
「陸奥への出立はとりやめました。身重のあなたの体にたいそう負担がかかるのがお気の毒ですから」
乳母がいやな顔ひとつせずに言うのが、女君には不思議といえば不思議であったが、体の苦しさと陸奥への旅を思うつらさで、もう死んでしまいたいなどと考えていたのが、『とりやめ』の一言で、すこし楽になったような気がする。おなかの子を少しはいたわろう、という余裕も生まれた。



野分の雨風がたいそう強いある日、狭衣は飛鳥井女君のもとへ出かけた。
いつも女君のもとへ忍んで行くときの衣装は、素性がわかってしまわないような質素な目立たないものであったのに、今日はまた雨風にたたられて一段とみすぼらしく濡れている。が、香りだけは隠せないもので、高貴なる薫物の芳香が狭衣のまわりに立ち込めていた。
「こんなにひどい雨風の中を歩く事になろうとは思わなかったな」
狭衣は濡れた衣装を脱ぎ捨てて、飛鳥井女君をかき抱く。
「長い間来れなくてすまなかったね。恨んでいるの?ああ、こんなにじれったい気持ちになるのは初めてだよ」
など睦言を交わしながら夜を過ごす。女君は、まだ自分の素性や将来のことを狭衣に言おうとしない。『まだ私に心を許してくれないのか』とため息をつきたくなるが、このように逢瀬の最中はどうしようもないほど可憐にすがってくる。こんな姿を見ると、源氏の宮への恋慕はともかく、この女君はおろそかにはできないな、と思った。



夜もすっかり更けてから自邸に戻った狭衣は、うとうとまどろみながら夢を見た。悲しげな飛鳥井女君のおなかがはっきりとふくらんでいる夢。
『このようなことをどうして今まで知らせてくれなかったのですか。これほど深い縁があるのに、あなたは私のことがそれほど頼りにならないのですか』
夢の中でそう言うと、女君は心細げに笑って、
『私は行方不明になります。私が死んだら、あなたと私の子をどうか探して面倒を見てください』
と和歌を詠む。


そこで、目が醒めた。
遠くから、父大殿の声が近づいてくる。
「今日と明日は重い物忌みであったのを、すっかり忘れていた。ああ大変なことだ。家の外からやってくる手紙などは、決して見てはいかんぞ」
物忌み。狭衣は胸騒ぎがした。
どうして飛鳥井女君の夢など見たのだろう。懐妊のことなども、考えてみるといろいろ思い当たるふしがある。どうして昨夜、気がつかなかった。ああ、女君に今すぐにでも会いたい。
狭衣は大急ぎで女君のもとへ手紙を書く。
『今すぐあなたに会って話したいことがありますが、今日と明日、物忌みで動けそうにありません。とても不思議な夢を見ました』
返事の手紙が、誰にもわからないようにこっそりと届けられた。
『早くおいでくださいませ。わたくしもとても不安です』
という歌がある。思いのままに書いたようで、特に上手とはいえないが、若々しく可愛らしい手蹟である。


そのとき飛鳥井女君の家には、筑紫へ下る道成がいた。
「さあ、約束どおりやってきましたよ」
乳母は、いつもやってくるやっかいなあの男君(狭衣)がいないので、なんと都合がよいこととうれしく思う。女君のもとへ行って、
「明日の早朝に出発することになりました。この家の西側に井戸を掘るらしいので、土忌みになるそうですよ。すぐに出て行かなくてはなりません。あなたはどうするつもりですか」
と、突然った。
「さあさあ急いで。あなたをぜひ妻に、と仰る方が来てらっしゃるんですよ。ぐずぐずとお待たせしてはお気の毒をいうものです」
女君に美しい色合いの衣装を強引に着せる。化粧箱など一式を牛車に乗せて、呆然としていた女君を無理矢理車に押し込んだ。女君は何が何だか事情がまったくわからない。が、胸騒ぎがして落ち着かない。
やがて、暁を告げる鶏の声がした。
乳母ともうひとり女房が女君の車の後部に付いた。
車が家をでるとすぐ、矢をしたがえた武士たちに囲まれた。「夜が明けないうちに、はやくはやく」などわめいている。女君はこれからこの先一体どうなることやらさっぱりわからず、衣をかぶって震えている。
しばらくすると、淀川のほとりに辿り着いた。舟に乗せられるようだ。女君はここでようやく陸奥などではない、私はだまされたのだ、と気がついた。外には二十歳すぎの、みめよい男が笑顔で立っている。道成であった。しかし女君は、得意げになっているこの若者がとても憎らしい。私はどこへ連れられていくのだろうか。このような事態になったことを、どうやって男君に伝えられようか。


やがて飛鳥井女君は、舟に乗せられた。乳母は肩の荷が降りたように、すっかり満足な顔をしている。
女君は絶望で死んでしまいたくなった。この川に飛び込んではかなくなってしまいたい。
あの若い男が、飛鳥井女君の心を何とか和らげようと添い伏してあれこれ慰める。しかし、女君の泣き声は止むはずもない。
「いつまでも泣いていても、もはやどうにもなりませんよ。どうか私に従って下さい。私は身分は決して高くはありませんが、あなたを愛する気持ちは誰にも負けないつもりです。いまはこんなですが、私は来年には殿上人になれる予定です。どうか私の言葉を信じてください」
と道成は言いながら、女君がひき被っていた衣装をそっと下げると、たとえようもなく美しく可憐な泣き顔がのぞく。道成はうれしくて、何としてでもこの女君の心を我がものにしたい、と思う。
しかし、いつまでたっても泣き止まない女君に道成はしびれをきらし、乳母に、
「ここまで嫌われているとは思わなかった。乳母殿、なんとかしてくださいよ」
と泣きつくが、
「あなただって、これが女君の本意ではないことくらい、わかっているでしょう」
と乳母に言われる始末。
困った道成は、
「この衣装は、わが主人、狭衣中納言さまより餞別にいただいたものです。とりあえず、女君の衣装が涙でぐっしょりなので、着替えてはいかがですか。主人の使っていた扇も別れの形見にといただきましたので、これもお使いください」
と、衣装を差し出すと、乳母は大喜びで、
「まあなんて美しいのでしょう。さ、男君のおっしゃるとおりになさいませ」
といそいそと着替えさせようとする。
飛鳥井女君は、ここでようやくこの男が、以前からしつこく求婚していて乳母に気に入られている男だ、と気がついた。しかも、狭衣さまの家来だったとは。他の人ならまだしも。扇にとても美しい手蹟が見える。道成が自分の主人を自慢する言葉に、涙がさらにあふれてくる。この男は、自分の主人の狭衣が飛鳥井女君のもとへ通い続けていることを知らないのだ。
女君は絶望でいっぱいになった。もうお会いできない。ご自分の家来が遠国に連れていく女が私だということをご存知なのか。見れば扇に『行方も知らぬ恋の道かな』と書き散らしてある。これがあの方の真実の心なのか。私は退屈しのぎのなぐさみものだったのか。
目の前の海のうねりが、正気を失いそうになる女君の眼を誘う。
もうこれ以上は生きていけそうにない。