鈴なり星

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狭衣物語38・ようやく愛しい我が子に出逢えて

 

 

一品宮が下がった後の昼下がり、幼い人のいる気配がする部屋の障子のもとに近づいて、狭衣はこっそりと穴をあけてみた。穴をのぞくと、その向こうに、九つか十くらいの遊び相手がたくさんいる中に、若宮と同じくらいの年かっこうの、それはそれはかわいらしい姫が遊んでいた。目元など在りし日の飛鳥井の女君に生き写しだ。狭衣はあまりのなつかしさに涙がこみあげてくる。
「宮さまのお部屋へ知らない人が来ているんですって。でも会わせては下さらないの。見てみたいのに」
など、可愛らしい頬をふくらませている。遊び相手の女童たちが、「帝さまよりもう少し身分が低いってことですよ」「宮さまの背の君ですって。それなら姫さまのお父さまですね」「とってもお美しい方ですって」など、にぎやかにおしゃべりしている。そのうち童たちが障子に近づき、開けようとする気配がした。狭衣はたまらず、童たちが開けるより早く、障子を勢いよく開け放した。びっくりして逃げまわる童たちの中から、愛しい忘れ形見の姫を迷わず見つけ、しっかりと抱きしめ、そのまま自分のいた部屋へと連れて行った。
膝をついて、すぐそばでよく見れば見るほど、顔立ちが飛鳥井の女君にそっくりなその小さい姫を、狭衣は涙で袖が濡れるのもかまわず長いこと抱きしめていた。感無量だった。
ようやく我にかえると、見知らぬ人の不審な態度に何のことやら訳のわからない姫が、不安そうな顔でこちらを見ていた。

『忍ぶ草見るに心はなぐさまで忘れ形見に漏る涙かな
(忘れ形見の姫君を見るにつけても、ますます思い出される女君よ)』

「ああ、すまないね。どうかこわがらないで。私はね、あなたをとっても大事に思っている人間ですよ。この部屋には、いつでも遊びに来てもいいのですよ。来てくれるなら姫のお好きな絵や人形も取り寄せましょう」
何の感情もわかない、冷ややか過ぎる一品宮との結婚生活だが、狭衣は初めて結婚してよかったと感激していた。なぜならようやく忘れ形見の小さい姫に会うことができたのだから。この姫がいるだけで、望まない結婚生活に耐えられる、そう感じた。
「人形あそびの道具などは持っていますか?もっと欲しいのだったら、私がつくって差し上げましょう。一條の宮の若宮のところにある人形の衣装なども取り寄せましょうね」
そんなふうにやさしく姫に語りながら、狭衣は紙に子供が好きそうな絵を描き始める。
姫も次第に警戒心解け、声をあげて笑ったり、冗談を言ったりするようになった。笑い声やものの言い方が、母である亡き飛鳥井戸女君そっくりで、かえって狭衣の方が混乱しそうだ。
素性をはっきりさせた方が、姫もきっと重々しく扱われるに違いないと狭衣は考えるが、深い溝が出来つつある一品宮との仲を、自分の方から歩み寄るのはいやだった。ならばここに自分がいる限り、できるだけこの姫をお世話しよう、日陰の者にならないように盛り立ててあげよう、そう心に誓ったのだった。

「子供たちが、たまたま私のいる部屋の近くで遊んでいましたので、例の幼い姫君に相手をしていただいてますよ。あんまり退屈なのでね」
相変わらず皮肉なものの言い方で、一品宮方に伝言する狭衣だった。しかもこのことづてを、姫君の遊び相手の童たちに伝えさせたのだ。
「まあ。何を考えておられるのか油断のならないお方なのに、時期が早すぎますわ、誰が姫をあの方のいる部屋の近くに連れて行ったのです」
と一品宮は不機嫌そうに言う。
姫の乳母が、狭衣と遊んでいる姫を迎えに行った。
「姫さま、宮さまに黙って知らない人にお会いするなど感心しないことですよ。お迎えに上がりました」
「こんなによそよそしい人ばかりが集まっているこのお屋敷で、初めて心を通わせられる気の合いそうな方を見つけることができましたよ。この姫のおかげで、ようやくこちらのお屋敷にも軽やかに足が向くというものです」
この屋敷の者を見下すような言い方であるが、狭衣の容姿のきらびやかさに乳母はひけ目を感じて押し黙ってしまう。
「姫、あなたはこの者をなんとお呼びしているのですか」
「お母さま、って」
「そう。ならば今からこの私も『おかあさま』と呼ばせてもらおう。さあ『おかあさま』、あなたを頼りにしているこの私を嫌いにならないで下さいね」
美しく冷たく言い放ち、狭衣は乳母を部屋から下がらせた。


狭衣は、自分と姫君の出会いの場面、ましてや感激のあまり我を忘れて抱きしめたところなど、一緒にいた童たち以外に誰も見られていないと思っていたが、ちょうどそのとき童たちのいた部屋の片隅に、一品宮の乳姉妹である中将の君という女房がいて、姫が狭衣の部屋に連れて行かれた時から、こっそり障子の向こうの二人の話し声を伺っていた。
中将の君は一品宮の御前でその時の様子を報告した。
「狭衣さまがそのような歌をあの子に…ではあの子は某少将のお子ではなく、狭衣さまの…そう、それで合点がゆくというもの。狭衣さまがこの邸のまわりを頻繁にうろついていたという噂の理由が。私ではなくあの子に会いたいと思われていたからなのですね」
そう一品宮は言ったまま悩ましそうにうつむいてしまう。
素性のわからないあやしい身分の人(飛鳥井女君のこと)の子ではあるけれど、たいそう美しく愛らしい子なので、そばにおいて育ててゆこうと思っていたけれど、この子のせいで、あんなに薄情な、人を人とも感じていないような言動の狭衣を招きよせてしまった、しかもこの子がいる限り、狭衣は愛情の全くない形だけの夫婦関係を続けていくであろうよ、とそれを考えただけでなんとも体裁の悪い思いがする。
この話を聞いてから一品宮は狭衣のことがますますうっとうしくなり、顔を見せることもめったになくなってしまった。ごくたまに対面するときなど、宮は狭衣に対してたいそう冷たいあしらいをするようになり、見かねるような仕打ちをするときもあった。すっかり愛情の冷え切った夫婦関係だったが、狭衣はただこの幼い姫君に会うためだけに一条院に通っていた。
狭衣の愛情に包まれて、小さな姫はすっかり彼になついていた。



ある日、狭衣はこの姫と一緒に一品宮に対面した。
「私たちにはなかなか子供ができませんね。私の父母などに、はやく孫の顔を見せろと毎日のようにせっつかれてますよ。普通の公達のように、私があちこち夜遊びに励んでいたら、自然と私の子であるとの名乗りもあったんでしょうにね。でも私にはそんな色好みもなく残念なことです。
どうでしょう、この幼い姫を我々の子として育てては」
何食わぬ顔をして狭衣は一品宮に言った。
素直に打ち明けてくださったらよいものを。どうしてこのお方は何事もこう隠したがるのか。こんなに隔てのおかれるご性質ならば、ほかにどんな女性との関係をお隠しになっておられるかわかったものではないわ―――と宮は心底狭衣のことがうとましくなった。
こんな方といつまでも夫婦を続けていくことはできない、以前から決心していた出家を今こそ叶えたい…そう考え始めた。