鈴なり星

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狭衣物語27・今姫君の母代の衝撃の告白

 


対の屋の御簾のもとで、「大将が参りました」と狭衣自身が告げると、蚊の鳴くような声で女房が何か言い、バタバタと逃げる音がした。
こうして逃げ隠れするのが洞院上の流儀なのだろうかと思い、御簾を引き上げてのぞくと、たくさんの女房たちが重なり合うようにお互いの裾を踏みつけ、将棋倒しのようになっている。そのさまは、まるでまき割りの木を積んでいるかのようだ。
そんな女房たちの端っこに今姫君はいた。
いろいろな袿の上に赤い桜の織模様の小袿を着た姫の後姿は、なかなか美しい。髪もうるわしく、それほど多くない量がさっぱりとしていて優雅な感じである。
狭衣の来訪におどろいた今姫君は、すぐにも座れないでとまどっている。
容貌は美しいが、ちょっとしたことで走っていきそうな軽々しい習慣が身についているらしく、たいそう見苦しい。しかし姫君の生まれ育ちを考えると、これを欠点といっては気の毒だ、と狭衣は同情した。
扇がどこへ行ったかもわからずあせって突っ伏している姫を間近で見た狭衣は、
「あなたが私をよそよそしく思っておられるようで、なかなかこちらにお伺いする決心がつかず、疎遠になっていたことをお許しくださいね」
など愛想よく言ってみたが、今姫君は言いようもない恥ずかしさで汗が流れるのみ。姫は、以前狭衣が来訪した時の母代の対応なども思い出され、また今回も母代に何と言われるかと考えただけでも恐ろしい。
その母代は自分の局にひっこんでいたが、女房の誰かが狭衣の来訪を教えたらしく、今姫君のいる部屋の御帳台の後ろに足早にやって来た。
「洞院上に謂われて、あなたの琵琶の音を聞きにきましたよ。どうか弾いてくださいな」
と狭衣が言うと母代は、
「姫さまの琵琶は、普通一般の人が聞いてもお分かりになることはできません。そのくらいすばらしい音なのでございます」
とひどく得意顔で姫君に琵琶を差し出し、
「ささ、ご用意なさって」
と姫に準備させると、姫はたいそうゆるゆるに弦をつなぐ。
「さあさあ、早くお弾きなさって」
と母代にヒジでせっつかれ、姫は風俗歌などを弾きはじめた。
母代は、それを大変上手に弾いていると思い、愉快でたまらない様子で、扇を打ち鳴らしながら踊りだした。
その様子が御簾を透かして見え、狭衣はあまりの滑稽さに大笑いしそうになり、日頃の物思いもどこかに飛んで行きそうなくらいだ。今姫君が琵琶を弾くたび、母代が無茶苦茶な声を上げ下げして歌い、姫はさらに弾きたてられ、いつまでたっても終わろうとしない。
二時間近くも弾き続け、狭衣はもううんざりしてしまった。
母代は恥ずかしいほど軽々しいし、女房たちは品がなさすぎる。物の道理もわからない役立たずの者たちに囲まれて、今姫君も調子に乗るだけで落ち着きがなさそうだ…狭衣はそう判断した。白痴にも近い今姫君の振る舞いにがっかりだ。こんな姫君を入内させようなんて洞院上もどうかしている、なんと非常識な御方だろう…と狭衣はたまらなく恥ずかしくなった。
きっと今姫君は、洞院上の前ではひたすら恥ずかしがるばかりで、上もことさら姫君の資質を怪しまなかったのだろう、上は琵琶に興味がなさそうだし、だから姫の弾いているところなど見た事もないに違いない。カン高く話す姫の大声を聞けば、上にも姫の白痴ぶりがお分かりになるのに。もし分かったら、いくらそこそこ美しくても、入内なんて大それたことは思いつきもしなかっただろうになあ―――と狭衣は味気ない気持でいっぱいだった。
他人の言われるままにしか行動できない、判断力のまったくなさそうな姫君ではあるが、手蹟の方はどうだろう。わずかな期待をもって姫の手習いも見てみたが、続けて書くことも満足に出来ていない不明瞭な文字があきれるほど下手で、これはいったい何と読めばいいのかと首をかしげるほどだ。祝言の和歌のようだが、

『母もなく乳母もなくてうち返し春の新田(あらた)に物をこそ思え
(母も乳母もなく、苗のような私が、春の荒田を耕すように繰り返し繰り返し悩んでいる事よ)

荒くのみ母代風(ははしろかぜ)に乱れつつ梅も桜もわれうせぬべし
(荒々しい春の突風のような母代のつらい仕打ちに、私はもう死んでしまいたい)』

今姫君は母代の虐待を感じているのだろうか、祝いの歌とも思えないような歌が、墨色黒く、空白の部分もなくいっぱいに書かれていた。
「どうです。姫さまは本当にきちんとお書きあそばしておられるでしょう?
現代風の文字は、墨つきを濃く薄くとごまかして、よろめいたように書くようですけど、この姫のしっかりとした文字は古代風です。あなたにこの良さがおわかりになります?」
と、母代はたいそう得意げだ。
「私には筆使いなど、はっきりとは存じませんが、あなたがこんな風に書かせようとしたことだけはわかりますよ。琵琶の手ほどきも、あなたが呼んだ方が教えられたのですから、私が直すとかえってゆがめてしまいそうですね。ですからお断り申し上げます」
狭衣がそう言うと、母代は、
「まああ。あなたが直さなくてもいいと言うほど、姫さまは本格的な上手になったんですねえ」
と鼻高々で、その様子がとても不愉快だ。
「おお、そういえば意外な人が、あなたさまのお手紙を持っておりましたのを存じてますよ」
と急に思い出したように母代が言う。
「私はめったな事では手紙は書かないのですが」
「いえいえ、あの手紙の様子では、相手の女の方とあなたさまはとても普通のご関係には思えませんでしたよ。おほほ。
『今すぐ恋しいあなたに逢って話したい事がある』
ってねえ」
いかにも猫なで声でやさしいように見せかけている母代が言ったその言葉は、かつて狭衣が、筑紫に連れ去られる直前の飛鳥井女君に送った手紙の中の一言だった。物忌みでどうしても家を抜けられない狭衣が、女君が懐妊したことを告げる夢を見て、矢も立てもたまらず送った手紙だった。あの直後から女君は行方知れずになってしまったのだ。
「…そんな執念めいた恋文を、私が書いたという証拠をはっきりおっしゃってごらんなさい」
怒りを押し隠して狭衣がそう言うと、母代は、
「あなたさまは以前、二条大路のあたりで、
『飛鳥井に映る美しい木陰のようなあなたに逢いに来たら、隠れているかもしれないあの法師が出てきて文句を言うでしょうか』
と言いながら、賤家に入って行かれましたねえ、美しい言葉を並べ立てて。私はようく知っていますとも」
と言う。
「何のことでしょうか。私にはまったく思い出せもしないことですが。証拠をはっきりとおっしゃってください。なぜそんなことをあなたは言うのですか」
「おやおや?そうまで食い下がってこられるとは、やはり私の思ったとおりなんですね。
実はうちの姫さまの亡き母上…伯の君と申された方は、故帥平中納言の妹君なのですよ。その人には姉君もいて、中納言の君と言う名で女院にお仕えしていましたが、筑前の某朝臣にかどわかされてしまったのです。その後、中納言の君は夫の某朝臣が死んでから尼になって、今は常盤(ときわ)という所に住んでいらっしゃいますよ。その尼君のもとに、お相手の女の方が身を寄せておられることも、私は存じておりますよ。その縁故で女の方が女院のもとに出仕することもあったようですよ。不如意な暮らし向きを少しでも楽にしようと思ったんでしょうねえ。健気な事ですわ。ま、女房勤めが向かなかったのか、乳母さんがお断りしたようですけど。
その頃にあなたさまがお通いあそばされたんじゃないですか?その女の方のもとに」
「……」
「あなたさまの側近の従者に盗まれた女の方が、筑紫行きの船に乗せられて、絶望のあまり身を投げようとしたところを女の兄の僧に救い出され、その兄僧が女の方を常磐の尼君のもとに隠したことも、私はみな知っておりますとも。しかもその女の方が、それはそれは美しい子を産んだことも何もかも知っていますのよ、おほほ。
その女の方、出産後は尼になった後すぐに亡くなられたようですけどね」
母代のこの独壇場のようなひとり語りを、狭衣は夢を見ているような思いで聞いていた。
亡くなった?
うそだ。
本当に?
ああもっと聞きたい、この母代はまだまだ知っていそうだ、しかし、下品な目つきでこちらを見上げている母代に、弱みなど握られたくない。
「…長々とお話くださってどうもありがとう。でも私には思い出す事ができそうにありませんよ。間違った噂を聞かれたのではないですか」
そう言い捨てて、狭衣は西の対の屋をあとにした。
あんな思慮分別のない、浅ましい物言いをする者がこの屋敷にいるのか。
母代の、今姫君の琵琶の音にあわせて揺れ踊る滑稽な姿を思い浮かべながら、狭衣は飛鳥井女君とその御子が心配でならなかった。