鈴なり星

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狭衣物語9・窮地に立たされた飛鳥井女君

 


この飛鳥井女君は、故帥の宮の娘であった。両親は亡くなられたが、女君の乳母が主計頭(主計寮の長官)の妻で、夫が亡くなった後、不如意な生活を送っていたため、金儲けを狙って女君をあの仁和寺の威儀師に売りとばしたのだった。女君のもとに毎夜のようにやってくる公達は誰だろうか、きっとあの者が大事な威儀師を追い払ってしまったのに違いない、しかし、急に威儀師ににらまれたら、私たちの生活はどうなってしまうだろう、など乳母はいろいろ考え、女君の前に進んで、
「あの威儀師がこの家と縁を切ってしまったら、私たちのこれからの生活はどうなるのでしょう。最近、東宮妃として源氏の宮が入内なさるとかで、身分ある女人が『我こそ女房に』と堀川殿に参られている、と聞きましたよ。あなたさまもお頼みしてはどうですか。それに、最近そばにおられる方はいったいどこの誰なのですか」
と尋ねる。
「…賤しく貧しいこの身。どこのどなたかわかるはずもありません」
小さな声で女君は答える。乳母は、
「昨夜もあのお方がいらしたんですよ。門をドンドンと家来に叩かせて。検非違使庁別当の息子さま。数少なかったこの家の召使も、検非違使関係の方と聞いて、すっかり怖れて誰もこの家に近づかなくなりました。おかげで本当に暮らし向きに困っていますよ。ちょっとばかりご身分が高くてもねえ、私も年をとって、これからこの先あなたさまのことをどうしようかと悩んでるんですけど、そうなると誰があなたさまのお世話をしてくださいましょうや。本当に私の足手まといになってしまわれて」
とため息をついた。
「お願い。私を見捨てないで。どこにでもついていきますから」
女君は力なくつぶやく。その姿に乳母は多少良心が痛むが、女君を世話してくれる人もなく、生活の頼りとなる夫の主計頭も死んでしまい、陸奥にいる知人のもとに身を寄せたいが、女君をどうしようかと悩んでいる。



狭衣は、飛鳥井女君をたいそう愛しく思うようになった。こんなに美しく可憐な人なら、行く末までも世話したいものだ、私の身分に釣り合うほどではないが、ここまで執着できるほどの女人に出会ったのは初めてだ。
飛鳥井女君を引き取って世話しよう、狭衣はそう決心した。



乳母は重荷を降ろすかのようにせっせと陸奥への旅の準備をしている。飛鳥井女君は、
「乳母がいなければ、暮らしていく事などできないわ。何もできない私なのに。私も一緒に行きたい」
と泣き続けている。乳母は、
「なにをおっしゃいます。ようやくお世話してくださる人が見つかったというのに。私は、あなたのためだけに京にいることはできないんですよ。あなたの身の上には同情しますけど、今まであの威儀師の援助があったからこそ、生活もできたのです。でも、これからはそれもなくなってしまって。
しかしまあねぇ、あなたの身を引き受けてくださるあの方(狭衣の事)も、いつまで大切にしてくださるかしらねぇ。ご身分も何も明かしてくれませんし。飽きてしまわれたら、あなたは今度こそ本当にひとりぽっち。そうですねえ、それを考えるとやはり私と一緒に陸奥へいきましょうか」
などと言いながらどんどん出立の準備を進めている。
飛鳥井女君はもう途方にくれてしまっていた。確かにあの男君はご自分のことをはっきりおっしゃらないが、お会いしたときの物言いや風情・きちんとした態度などを見るにつけても、女君は「信頼できる方だ」と次第に感じてきている。
乳母が共に陸奥へ連れて行ってくれるときいて、ほっとする気持ちはあるものの、そうなれば男君と逢えるのはあと幾日だろうと心細くなるが、かといって男君に「いついつに出立します」などとほのめかすのも遠慮されて言えない。そんな女君の物思いの態度に、狭衣は、
『こんな名も明かさないような態度だから、頼りにならないと思われているのだろうか。しかし、身分に釣り合わないような女人との不思議な出会いを、他人に話すわけにもいかないし』
と少し心苦しく思う。
「あなたも、自分は名もない漁師の子、とでもおっしゃってくださいな。そうしたら私も名乗りましょう。どちらが先に話すか、こうなったら根気比べですね」
狭衣はやさしく笑いながら言う。自分の好意の並々でないことを、いつか彼女はきっとわかってくれるだろう、とのんびり構えて過ごした。

いつしか、季節は変わり、暑苦しかった夏も、秋になった。



伊勢物語の業平の勢いにまかせて、狭衣が源氏の宮に思いのたけを打ち明けてから、源氏の宮は狭衣を避け続けている。「避けられてもあたりまえだ」と狭衣は思うが、表面上は努めて平静を保っていた。が、心のうちは湧き出る岩清水のように恋心があふれてどうしようもない。
思いを抑えかね、ある日の昼、狭衣は源氏の宮の住む対の屋へ行った。そこにはちょうど、狭衣の母堀川上がいらしていて、源氏の宮と碁を打っていた。
「ああ、審判役をおつとめすればよかったですね」
と狭衣が近づいていくと、源氏の宮はたいそうきまり悪く思い、碁を途中で止めて、ことさら狭衣の視線を避けようとする。


…ああやはりたとえようもなく美しい、あの飛鳥井女君と和歌を詠み交わして契りを結んだことは一時の迷いだったのか。冷静に考えてみれば、我ながらあきれたことをしたものだ。この源氏の宮の比類なき美しさを前にすれば、少しでも劣っている女人(飛鳥井女君)を世話するなど、まったくばかげたことではないか。やはり行く末を誓うのは、源氏の宮以外にありえない。しかし源氏の宮はいずれ東宮妃…。


思い悩む狭衣は、情けない顔をしているのではないかと姿勢を正して、
「どちらが先手をうっていられるのですか」など二人に尋ねる。
母堀川上はそのことには触れないで、
「昨夜のことですが、内裏よりご使者が参りそなたをさがしておりました。誰もそなたの外出先を知らなくて心配しましたよ。女二の宮付きの侍従の内侍のもとにお手紙を出して、そなたの気持ちをほのめかしなさい。父君は、そなたがお手紙を出さないのは間違っていると、たいそうお怒りです」
非難めいた口調で言う。
狭衣は言葉がでなかった。
飛鳥井女君の事は秘密にしているのである。そうか、最近父君の機嫌が悪いのは、このことだったのか、と涙が出そうになる。そのうつむきかげんのうれい顔は、さながら鬼神もなびくよう。母君はあわてて、
「何事もあなたの思うとおりに、と私は思うているのですけど、父君とあなたの意見が違っているのはどうしたものでしょう」
と言う。狭衣は話をそらそうと、
「そういえば、洞院の方の西の対の部屋のしつらいがなおされているようですが、どうかしたのですか」
と聞いた。母君は、
「さあ。故一条院の后の宮に仕えていた伯の君の娘がいらっしゃるそうですよ。母の伯の君がお亡くなりになったので、洞院上が引き取られたそうですが。その方をお迎えするために、手入れし直されているのではないかしら。その伯の君には、事情のある不審な男の子もいるようですよ」
含みのある調子で答える。あるいは父君が、その伯の君とやらに産ませた子なのであろうか、と狭衣は考えた。
「そうですか。その男の子も、うちの父君の子であればいいのになあ。私には兄弟がいないから。そうしたら、私が死んでも、私のことを時々は思い出してくれる兄弟ができる」
狭衣がそう言うと、母君は血相を変えて「なんと不吉なことを言うのです」と言う。
「狭衣や、あなたは思い出してくれる人さえいない、と嘆くけど、異腹の姉君であられる中宮さまがいるではありませんか。それに、源氏の宮もいる。狭衣、そなたは普段からあまり源氏の宮と親しくはしていないようだけれど、源氏の宮の遠慮深さに甘えてはいませんか。もっともっと打ち解けて親しくしてもよいと思いますよ」
何も知らない母君は言葉に力を込める。
狭衣は、源氏の宮との仲のことを指摘されたので、ぎくっとして顔色が変わる気持ちになる。源氏の宮はこの状況をどう思うだろうか。几帳の中に入ってしまわれた姫君。抜け殻のようにぼうっとしているに違いない。
季節は秋の始めだが、まだ暑苦しく蝉が木立で鳴いている。蝉の鳴き声が増すように、源氏の宮への思いも増していく狭衣。誰にも聞こえないよう、

『蝉は声をあげて鳴けるが、私はただ声を出して泣かないだけなんだよ』

と和歌をつぶやいた。
漢詩を詠うと、近くの女房たちが「まあどうなさったのかしら。めずらしいこと」と聞きほれている。狭衣がいる限りこの堀川はいついつまでも安泰だと、邸に仕える者たちはすっかり安心しきっていた。


日が暮れて、苔むす前庭に植え込まれた花のさまざまな色合いを眺めているうち、やがて虫の鳴き声が聞こえ始め、美しい鳴き声で庭が満たされていく。「私だって泣きたい思いをこらえているのに」と狭衣は思う。
月ものぼり、夜が更けた。
あの狭い軒端の家で飛鳥井女君はどうしているだろうか。こんな月の夜も一緒にいたものだ。やはり忘れられそうにない。
会いにいってみようか、と牛車を向かわせた。