鈴なり星

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狭衣物語29・狭衣、涙の追善供養

 



二十日過ぎの細い月影が霞みがかって見える。
四方の山々に暁を告げる寺の鐘の声が寂しく響き渡る。
ひなびた山里のこんな風景を、飛鳥井女君も毎日見て暮らしたのだろうか…そんなふうに狭衣が女君のことを思いやっていると、隣の部屋で若い女房たちの声が聞こえた。どうやらその女房たちは、狭衣がもう帰ったと思いこんでいるようだった。
「なんて良い匂いがするんでしょうね。お帰りになられた後でもこんなに香りが満ちているわ。枕にまで良い匂いが移ってるわ。こんなふうに、時々でもお越しをお待ちできたらねえ。あの姫が生きていらしたら、とつくづく思うわ。あの赤子も、並々の美しさではないとひと目でわかったけど、狭衣さまの御子でいらしたのね。それなら納得できるってものだわ」
「あらどうして?亡くなられてよかったのよ。だって、北の方になられるならそりゃあ結構な事だけど、そんなのになれる身分じゃあるまいし。美しい思い出だけを狭衣さまの胸に残せてよかったじゃない」
遠慮もなくずけずけと女房たちの噂話は続く。たまらず狭衣は、声を大きく念仏を唱えた。五障ある女人がどうしたら成仏できるかといった念仏だった。狭衣の声が聞こえた瞬間、女房たちは、
「まだいらしたのだ、あさましい噂話を聞かれてしまったわ」
と急に黙ってしまった。


まもなく夜が明ける。約束どおり山伏が狭衣のもとへやってきた。
「私は世を逃れようと思い始めてから、もう何年にもなります。そんな時にあなたのような尊い僧に出会えたのも、仏のお導きではないかと思っているのです」
狭衣がしみじみ言うと、山伏は、
「恐れ多くも、然るべき前世の宿縁があるのでございましょうか」
と淡々と答えた。
山伏の目に曙の光のような美しい狭衣の姿が映る。
山伏はまぶしそうに目を細めながら、
「まことにあなたさまはこの五濁悪世にはもったいないお方です。
一時的とはいえ、なぜこの末法の世に生をお受けになられたのか…」
とため息をつく。
「そうれはそうと、あなたはこれからどうなさるおつもりなのですか」
狭衣が尋ねると、山伏は、
「ここの尼君に『自分が臨終の際は必ず立ち会ってくれ』と言われていますので、その約束は守るつもりです。ですから今はあまり遠くへ行けません。さしあたっては、和泉国や竹生島(琵琶湖北部)などで来年あたりまで修行しようかと思っています」
と答える。その物言いがさっぱりと清々しいので、狭衣は羨ましくて、思わずついて行ってしまいたい気持ちになる。それなのに、
「夜が明けてしまいます。出立の準備をお急ぎください」
と、従者に急かされるのだった。


京の屋敷に戻った狭衣は、亡くなった飛鳥井女君への供養を前にも増して心をこめて行った。心細い暮らしの常磐の尼君のためにも、日常のこまごまとした必要品や布施物をふんだんに贈ったり、まめに消息をたずねたりした。
尼君は、あまりのもったいなさに恐縮するとともに、これほどまでに親身になって世話してくれる狭衣に対して、ああ軽々しく御子を一品宮に譲るのではなかったと、心底後悔するのだった。