鈴なり星

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狭衣物語13・予期せぬ出来事

 

 

数日後、狭衣は大宮のもとに出向き、上臈女房の中納言典侍を訪れた。大宮と親しい縁者で、幼い頃からお仕えしている女房だ。
この中納言典侍の姉は、大弐と言う名で狭衣の乳母として仕えた者である。大弐乳母は夫とともに遠国に下向してしまったが、そういう血縁関係もあって狭衣と中納言典侍はまあまあ気安くものが言える間柄なのである。よって狭衣はこの中納言典侍から姫宮たちの様子をしばしば聞いていた。
帝の御内意を知ってから、女二の宮の住んでおられる弘徽殿には近づきもしなかったが、こうなれば仕方がない。しかし、かんじんの中納言典侍は所用で不在とのこと。出鼻をくじかれた狭衣は、本意ではなかったが、清涼殿のあたりをウロウロしていると、筝の琴がほのかに聞こえてくる。
盤渉調がたいそう忍びやかにあたりに洩れて、狭衣が心ひかれて戸口にもたれて聞いていると、その戸が少し開いた。開けて中に入れば、琴の音がすぐ近くに聞こえる。夜も更けて、人の声もほとんどしない。
狭衣は障子をそっと開け、几帳の間を通り母屋に入った。
中には姫君が二人寄り臥している。どちらが女二の宮だかわからない。おそらく筝の琴のそばにいる、あのお方が女二の宮であろう、と判断した。髪が絹のように衣装によりかかっているのがすばらしく美しい。
離れたところに2、3人の女房が侍っていた。何か話しているのを聞いてみると、狭衣自信のことだった。「あの時の天人御子のめでたさったら」「狭衣様が、笛をもてあそびながら悩んでいる様子のなまめかしかったこと」など言いあっている。
「あの時の様子をなんとかして絵に残そうとした人がいたんですが、天人御子はともかく、狭衣様の光輝く様子がどうしても描けなくて、とうとう破ってしまったんですって」
女房の言葉に起き上がる姫君がいた。こちらが女三の宮であろうと思われる。
「まあ、残念だわ。とても見たかったのに」
など、たいそうかわいらしく愛敬のある声だ。女二の宮はといえば、なにも話してはいなかったが、他の女房たちの語らいを微笑みながら聞いている。その口元や笑みがあまりに美しいので、狭衣は、
『ああ、これこそ比類ないといわれる女二の宮だ。お姿をこんなに真近で拝めるなんて。関心がないとずっと思い続けてきたが、これは離れられそうにない美貌だ』
と夢を見ているようである。
夜がさらに更けていくにつれ、女房が減り、中将と呼ばれる女房が女三の宮のそばで寝た。
少し離れたところで筝の琴を弾いていた女二の宮も、やがて横になって寝た。
その様子を隠れて見ていた狭衣は、女二の宮の、息も止まりそうな美しさに圧倒されていた。
あれほど女二の宮のことが面倒でずっと敬遠していたのに、これほどの心の変わりようはどうだろうか、と狭衣は自分の気持ちが我ながら憎らしい。
急に何かに憑かれたような気持ちになって、狭衣は女二の宮を抱き上げ、奥の御座に引き入れた。
男に抱き上げられたのに気付いた女二の宮が、
「あなたは誰」
と震えているのがたいそう上品だ。

『あなたを下さるという帝の仰せに、その日を待ち焦がれて、私はもう焦がれ死んでしまいそうです』

とつぶやいたので、女二の宮には、この男が狭衣だとようやくわかった。恥ずかしさのあまり、わけもわからず泣いている女二の宮は、近くで見れば見るほどいっそう美しさが増すようだ。とてもこれきりでは立ち去れそうにない。
「ご安心ください。帝のお許しもないうちに、決して無礼はいたしません」
となだめても、女二の宮は衣装を引き被って困惑している。その一重の衣装も透間が多くて、宮の身体の柔らかい肌触りが直接伝わってくる。その肌に、以前源氏の宮に恋心を打ち明けたときの、彼女の腕を思い出した。
『こんなところを女房にでも見られたら、源氏の宮への積年の想いは終わってしまうのだろうなあ。禁じれらた恋に絶望して出家したいといつも思っていたが…美しい女二の宮の悩ましいご様子を目の当たりにすると惑わされてしまう』

不埒な心に憑りつかれた狭衣は、そのまま女二の宮に覆いかぶさっていった。




酔いが醒めたように正気に戻った狭衣が女二の宮を見ると、やはり正気もない有様でひどく泣いていた。
ああ、憂き身にまた重い契りを結んでしまったことよ、と浅ましく胸が苦しくなる。こんなことになったって、急に心を入れかえて帝の仰せのとおりに女二の宮と結婚しようなどという気にもなれず、そうかといって、契りを結んだ事が帝に知れでもしたら、なんと思慮のない男だと、そう思われるのも恐れ多い。
狭衣はそっけない口調で、
「誰にもお話にならないように。正式にお許しのない間は、普段以上にお目にかかったりできないものですから。お手紙は中納言典侍にお渡します。どうか私を不安にさせず、お心にない愛情でもかけてください」
と言った。
なんて冷たい慰め方なの…と女二の宮は思った。
しかも中納言典侍にも言ってはいけないなどと言い放つ狭衣に、宮は失望を感じた。


もうすぐ夜が明ける。
どうして契るようなことをしてしまったのだろう、と狭衣は後悔した。
ああ、あの戸が開いていたのが悪いのだ。
なにもかもわずらわしくなった狭衣は、そそくさと帰って行った。




翌朝、女二の宮のもとに、母君である大宮がおでましになった。ふと見ると、そばに見たこともない上品な白い懐紙が落ちている。これは一体誰のものか。誰かが落としていったのか。手にとると、えもいわれぬ香りがあり、それと同じ香りが我が娘にも移っていた。
明らかに娘の様子がおかしい。衣装などがわずかに乱れ、泣き明かした後もある。
ああ、この様子、昨晩のうちに誰か男がやって来たに違いない、と大宮は確信した。
誰か手引きした女房でもいるのだろうか、これほど尊い身分の娘のもとへ男が忍び込むことなど信じられない事だった。
女二の宮は、母君のただならぬ様子を見て、ああ気付かれてしまったと、恥ずかしさのあまり顔も上げられない。


女二の宮のもとを逃げるように辞した狭衣の大将は急いで手紙を書いた。
とにかく早く、後朝の手紙を書いて中納言典侍に渡さねば。

『昨夜の仮寝を、かえって夢と思いたいものです』

何というよそよそしい和歌だと我ながらあきれる。しかしこれしか思い浮かばない。狭衣はこの手紙を持って、中納言典侍に会いに行った。