鈴なり星

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小夜衣21・東雲の宮、山里の尼君に現状を愚痴る

 

 

それ以来東雲の宮は、前にも増して小夜衣の姫のことばかりを考えています。自分が今いる宮中で、同じ空気を吸って暮らしている、と思うと、それだけで心は千々に乱れます。
この複雑な想いを、山里にいる尼君に訴えてみようか…ある日東雲の宮はそう決心して、洛外へ出かけました。
山松風のもの悲しさも鹿の鳴く声も、何もかもが宮の涙を誘います。懐かしい記憶ばかりの山里の家にたどり着き、やつれた尼君と対面する東雲の宮。
「このような形で再び尼君に面会しようとは思いもしませんでしたが、もの思いに魂が身体から離れていってしまいそうです。せめて尼君に、あの姫の形見としてお目にかかりたい、そう思って、おめおめとここまでやって来た次第です」
宮の憔悴しきった様子に、尼君ももらい泣きしてしまいます。
「身の程もわきまえずに申し上げることをお許しくださいませ。それほど後悔なさるのでしたら、なぜあの頃、姫をほったらかしになさったのですか。誠意を見せては下さらなかったのですか。姫が今どのような暮らしをしているのか、今初めて耳にしました。確かにあの姫は、雲間に宿る月の光のような風情、こんな山里で朽ち果てるような運命の持ち主ではございませんとも。
はるか昔に内裏の空気に慣れ親しんだとはいえ、こんな老いぼれが申すのも失礼なことでしょうが、なんの予備知識もなく、いきなりあのような気苦労の多い後宮へ放り込むのはあまりにお気の毒。息の詰まるような毎日に、姫はきっと病気になってしまいますわ」
姫を後宮に押し込む云々は、宮ではなく、本来なら父君である按察使大納言に訴えるのがスジというものでしょうが、ものの言い方がたいそう雅びで、かつての花形女房ぶりが偲ばれます。
何て情けない殿方よ、となじられたのも同然の宮ですが、言い返す言葉も見つかりません。
「何とも弁解のしようもありませんが、私の結婚の経緯については、私と小夜衣の姫の間を取り持った宰相の君もよく存じているはず。あの結婚は親同士が強引に決めた、まったくもって不可抗力のものだったのです。小夜衣の姫に恋焦がれる苦しさなど、誰の前でも見せられません。それがどんなにつらいことか。気の毒に、と気遣ってくれる人など私の周りには誰一人いません。苦しい思いで不本意な結婚に耐えているというのに、突然山里を降りる決心をなさって、今は何もかも恵まれた後宮でのお暮らし。その上、今上のおぼえもすこぶるめでたいとか。そんな開けた運命が待っているのなら、こんな数ならぬ身の私を見捨てたのも納得が行くというもの。そのことについて、今さら恨んだりどうこういうつもりはございませんが、私の真心…姫を心から愛する気持ちだけは、この私自身の口から訴えなければわかっていただけないと思って、重い足を引きずり引きずり、はるばるこちらまで参った次第なのです」
切々と訴える宮の風情に、悲しみはいっそう増し、お互い涙があふれて止まらないのでした。
「あの姫が後宮住まいなど、にわかには信じられませんが、他でもない宮さまのお口から出た御言葉ですので、真実のことでございましょう。
てっきり父君のひざもとで、穏やかに暮らしているのだとばかり…おいたわしいことですわ。宮仕えはおろか、多くの人との交わりなどしたことすらない姫ですのに、どれほど窮屈な思いですごしているか。心配でなりません」
「いえ、それが、あれだけ気の張る後宮でも、なかなか評判がよろしいようなのです。特に琴の音色に関しては名人の域だとか。畏れ多くも今上までもが、姫の奏でる爪音を誉めそやしておられます。
どうしてここまで上手になられたのか、それに、師匠のあなたさまはどなたに学ばれたのでしょう」
「人さまのお耳に留めていただけるような、そんな音色があるわけではございません。山里暮らしは子供にとってあまりに退屈。その気晴らしにと、私がつまびく琴の音を真似して遊んでいたようです。幼い頃から、わざわざ手をとって教えたこともございません。勤行の毎日に、心の余裕すらなかったものですから…。私自身も、名のある御方に教えていただいたわけでもありません。周囲の皆さまの弾き方を、見よう見まねで覚えただけでございます。褒めていただくようなものは…」
「本当に、比類なき琴の響きなのですよ」
あれこれ話し込んでいるうち、次第に夕暮れの時刻が近づいてきました。東雲の宮は重い腰を上げて帰り支度をします。


尋ねくる かひなき軒の 忍ぶ草 ぬしなき宿ぞ いとど露けき
(尋ね甲斐のない宿に生える忍ぶ草よ、主なき宿は、ますます露に濡れて…)


そうつぶやく宮への、尼君の返し、


もろともに 住みこし人を 忍ぶ草 涙の露の おかぬまぞなき
(住みなれた主の姫を想って、忍ぶ草に露がおかれるように、私もいつも泣き濡れています)


古びた軒の忍ぶ草を眺めながら、歌を交わす二人なのでした。


陽が沈む時刻にはまだ少し間がありますが、月はそろそろ山から顔を出し始めています。木漏れ日が宮の立ちつくしている足元にくっきりと差込み、木立を吹き抜ける風が枯れ葉を落としてゆきます。
秋の木漏れ日も枯れ葉の舞う音も、こんなに悲しいものだったとは…と最後に逢った時に姫が見送ってくれた妻戸に目をやると、姫の姿がありありと思い出され、宮は声を上げて泣いてしまいました。
京に戻る道中も姫の姿が頭から離れません。
(生木を引き裂かれるような気持ちでいつも別れたな…結局、私は姫に見捨てられたのか。生きていて、こんなに悲しい思いをするとは。
思えば、こんな山の中の小さな家で、目にする人といえば老いた尼君と数人の女房のみ。若い女ならば誰しも、華やいだ後宮のほうがいいに決まってるさ。おまけに、今上が自分にご執心らしいと聞けば、もう以前の寂しい暮らしに戻ろうなんて考えもしないだろう。今上でなくとも、可憐の一語に尽きる姫をひと目見た男なら、誰だって夢中にならずにいられない。そんな男たちに囲まれて、私とのことなんてきっと忘れたに決まっている。その証拠に、たったひと下りの手紙さえ寄越して来ないじゃないか。本当に忘れていないのなら、ここまで無関心なんてありえないよ)
自虐的な言葉が次々と頭に浮かんでくる東雲の宮。いっそ姫を憎めたらどんなに楽か。けれど姫との逢瀬、可憐な風情を思うとどうして憎めましょう。どれほどみじめな気持ちに襲われても、姫を嫌ったりすることなどとてもできない宮なのでした。