鈴なり星

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古今著聞集・興言利口14 565~571段

 

 

565段 橘蔵人大夫有季入道の青侍、不運の事

蔵人大夫の橘有季という入道のところに年配の青侍がいた。
何事もツイてない、気の毒な人生を過ごしてきた彼だった。
ある飢饉の年、彼は3日間食べ物にありつけず、それこそ命も危ないという時、主人の大夫が所有する吹田の荘園から穀物が給物として運ばれてきた。普通ならば大喜びで分け前を頂戴するはずなのに、なんとこの青侍、
「今日はお日柄が悪いので、吉日に受け取ることにする」
と、隣家に分け前を預けたのだ。そして自分はさらに3日空腹のままでいたという。愚かにもほどがあるというものだ。
この分け前の穀物を預けていた最中、主人の入道の用事を青侍に頼もうとしたところ、青侍は、
「今から鞍馬寺に月詣でに参るところなのでございますが」
と答えた。するとご機嫌を損ねた入道、
「そうかそうか殊勝なことだ。必ずや(鞍馬寺ご本尊の)毘沙門天さまのご利益をいただけるであろうから、ワシのささやかな穀物など、物の数にも入らぬようになるわ」
と言い、隣家に預けた青侍の分け前を取り上げてしまった。
気の毒にもほどがある。
青侍の絶望感はいかばかりであっただろうか。


566段 ある上達部、左府入道隆忠を知らずに失礼した事

天福の頃、ある上達部が嵯峨の辺りに家を建てようと思いうろうろしていたときのこと。
大覚寺の池のほとりで破子(弁当)を広げていた上達部は、杖をついた老僧が一人で歩いているのを見かけた。彼は僧を呼びとめこの付近の話を尋ねると、おどろくほどよく知っている。「なかなかおもしろい僧だわい」と酒をすすめたが、老僧は「断酒した」と言って呑まない。「それならば」と上達部は弁当を一箱すすめると、「午前中にすませたからいらない」と言い、きちんと戒律を守っている様子。
「ならば、後で必ず私の屋敷に来るように。親しく取り立ててやろう。嵯峨の案内をしてもらおう。
ところで、おまえの家はどこだ。名をなんと言う」
と上達部が問うと、老僧は、
「この辺りの人は私のことを左府入道と呼んでますね」
と答えた。そう、老僧は前左大臣藤原隆忠だったのだ。
上達部はあまりのことに、広げた弁当を食べるどころか腰を抜かしながらその場を逃げ出した。


567段 左衛門尉某、烏帽子を被らず他家を訪問した事

前隠岐守の永観という者が親しく取り立てていた左衛門尉の話である。
永観の屋敷と左衛門尉の家は道を挟んで向かい合わせだったので、左衛門尉はつねにご機嫌伺い、早朝は誰よりも早く主人の永観のもとへ参るのだった。ある時、左衛門尉はうっかり烏帽子をつけるのを忘れ、もとどりが丸見えのまま永観の屋敷の門を通ろうとした。今で言えば下着一枚で外を歩くようなもの。
屋敷の者は皆「ありえない」と陰で大笑い。しかし、面と向かって注意してやる者がいなかったので、左衛門尉は屋敷内の妙な空気は感じていても、自分のこととは思わなかった。
朝日が地面に落とすおのれの影姿を見て、初めて頭部の異常に気づいたのだった。
頭をなで回した時のあせった顔、あわてふためきながら門から出てゆく後姿、さぞかし不恰好だったに違いない。


568段 将軍頼経上洛の時、若女房が奉行武者に連歌の事

鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経が初めて上洛したときのこと。
将軍一行が清水の橋を渡るため、武士たちが現場を仕切っていたが、その中に白い直垂を着た人品卑しからぬ風体の警備の武者が立っていた。そこへ、清水寺参詣に来た若い女房が通りかかり、この見目良い武者に和歌の上の句を詠みかけた。
「たぢろぐかわたしもはてでふみ見るは」
”橋を渡るのをためらっているのですか”と”連歌の返しにしり込みしておいでですか”の二つの意をかけているのだが、この武者は上手い返しが思いつかなかったのか、やおら大声を出し、
「なにい!?これから将軍がこの橋を渡られるというのに、将軍が上洛をしり込みしていると申すか?」
と女房に突っかかったのだ。
若い女房は因縁をつけられてはたまらないと興ざめ、足早にその場を立ち去ったという。


569段 醍醐大僧正弟子の常識知らずな手紙の事 

四条天皇が不慮の事故で崩御された時、醍醐大僧正の弟子の僧が、
「去る九日、国王俄かに死去すと云々。もつとも不便の事か」
と大僧正に手紙を遣った。
一介の僧のあまりに気取った文章に、大僧正は腹をよじらせて笑ったという。


570段 御禊にて三度名のりをして哄笑された馬の允の事

後深草天皇の寛元の禊の儀での出来事。
先帝の後嵯峨上皇が見物している桟敷の御前で、右少弁源顕雅が供奉人を問うと、馬の允が三度も名のった。
下手な名のりは批判と哄笑の的となる。
優雅に粛々と進むはずの神事の、ちょっとしたマヌケな光景だった。


571段 御幸に染め損じの狩衣で供奉した侍の事

宝治二年、後嵯峨上皇の日吉神社への御幸に、ある上達部が五人の供奉を伴った。
御幸にふさわしく華やかな衣装で同行する供奉人の中に、一人だけずいぶんと見苦しい格好の侍がいた。薄紫色で裏は白裏の狩衣、だが染めるのを明らかに失敗した衣装を着て、美々しい行列の中、一人悪目立ちしていた。
後日、長門守盛重という者がその侍に会ったとき、
「先日の御幸の供奉の侍たちは、みな輝くばかりの衣装でお供の列に従っていたが、染め損じの汚い薄紫の狩衣でトボトボと列に加わっていたのは、はて誰だったかねえ」
と意地悪く言った。くだんの侍は、その嫌味な物言いに、
「どなたでございましたかねえ」
とすっとぼけるしかなかったとか。