鈴なり星

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小夜衣28・小夜衣の姫の失踪

 


さて、こちらは後宮の対の御方の局です。
少納言の乳母(対の御方の乳母)は、自分の娘(小侍従)を御方に付き添わせ、自分は後宮に残ったのですが、尼君が危篤と聞いて一晩中まんじりともせず、夜が明けるのが早いか、胸のつぶれる思いで大急ぎで山里の家へ参上したのでした。
ところが家の中へ入ってみると尼君は何の変わりもなく、いつものように仏間で勤行に励んでいます。
(なんだか様子がおかしいわ。昨日のお使いは「最早これまで」と、今にもお亡くなりになりそうな勢いで御方の局へ飛び込んで来たのに、目の前の尼君は至極落ち着いて座っておられる。いったいこれはどういうことなのだろう。それに、肝心の姫君や付き添っているはずの我が娘(小侍従)や右近の君はいったいどこにいるの?)
乳母は不審に思い、昨夜の出来事を尼君に申し上げますと、
「まあ、どういうことですか?最近の私は特に具合の悪くなる事もなく、平穏無事に暮らしておりますよ。夜更けに牛車を内裏になんてとんでもない。ハッもしや、具合の悪くなったのは父君の按察使大納言さまでは?それなら牛車で迎えに上がったのもうなずけますが。私の名と大納言さまの名を聞き間違えたのでしょう」
と尼君は答えます。
「もし大納言さまがご発病ならば、まず先に梅壺女御に連絡が行くはずですし、何よりも今北の方さまが大騒ぎするはずでございます。梅壺の様子は至って静か。山里からの迎えだと使いの者は確かに申しました」
と乳母は断言しましたが、念のため、按察使大納言邸に参上して、昨夜から今朝にかけての一件を大納言に申し上げることにしました。


大納言邸に到着すると、まず今北の方が対面しました。
「それは思いがけない報告ですわねえ。対の御方はあのとおりの美人ですから、宮中でお顔を見せているうちに、どこかの殿方に懸想されたのでは?おおかたそんな殿方が、思いつめた挙げ句に連れ去ってしまったのかもしれませんねえ。
男が女を盗み出すなんて、昔からよくあることですのよ」
そんな推測をする今北の方。
乳母は目の前でとぼけた顔をしている今北の方を見て、
(何かおかしい。山里の姫君を母代にと、女御に無理矢理付き添わせたのは今北の方なのに。これが、腹心の侍女が失踪などという事態だとしたら、「侍女がかどわかされたですって?女御の周辺警備がこんな手薄では!」とまっ先に私達が叱られるはず。それが、報告をこんなに面倒くさそうに聞いてるなんて)
と乳母はあきれてしまいました。
大納言にも申し上げますと、
「いかなる者が姫を迎えにきたのだ、どんなわずかなことでも良いから思い出すのだ!」
とさすがに顔を青くして心配します。
「申し訳ありません。夜が更けておりましたので、顔や様子を確かめることができませんでした。ただひたすら「急いで急いで」の一点張りで、考える間もなく…何かの罠なのでしょうか」
と言って乳母が泣くので、大納言は何が何やら、茫然自失です。
「尼君に何とお詫びしたらよいか…姫を手放すのにあれほど悩んでおいでだったものを。お迎えした姫にしても、山里の家から移されて、ここで幸せだったとはとても思えない。その上行方知れずになってしまうとは。返す返すも尼君に顔を向けられぬ」
責任を感じて泣く大納言をよそに、今北の方は、
「まあまあ、あんなに美しい人だったのですから、懸想する殿方も大勢いらしたのではないですか?その中に、けしからぬ事を思いつく方がいらして盗み去った、というのがまず考えられますわねえ。ああでも、やんごとない身分の殿方ならともかく、地下人ごときの者に連れ去られたのなら、あの人はどうなってしまうのでしょうねえ。おお、想像するだけでもおそろしいこと」
とわざとらしくつぶやきます。
大納言の息子たち(先妻との間の子)の侍従と弁少将も、姫が行方知れずと聞き、どれほど驚いたことでしょう。小夜衣の姫が対の御方と呼ばれ、後宮で暮らすようになってから、親しくお話しする機会もでき、仲の良い異母兄妹としてつれづれをお慰めしていたのに、と心を痛めています。
大納言邸でも手がかりがつかめなかった乳母は、これ以上長居しても何も得られないし、何より尼君が心配しているだろうと、早々にお屋敷を辞し、山里の家へ戻りました。
尼君は乳母の帰りを今か今かと待ちわびていましたが、乳母の報告を聞き、
「なんですって?大納言家が差し向けた車ではなかったと?いったい、どこの誰が姫を連れ去ったというのですか。今北の方がおっしゃったように、日頃から姫に言い寄る殿方でもいたのですか?」
と乳母を問い詰めます。
「いいえいいえ、そのような事実はございません。誰かが手紙を寄越したこともございません。今北の方が勝手にそう思い込んで話しているだけでございます。
実は先日、姫さまのご気分がすぐれず臥せっていらしたとき、畏れ多くも今上がわざわざ局までお見舞いにお越し下さったのです。その時、たまたま梅壺女御の乳母子の弁の君と今上が鉢合わせになってしまい、弁の君が顔色を変えて出て行かれたという事がございました。あの後、弁の君がどのように女御に報告したかは存じませんが、以来後宮の空気がすっかりおかしくなり、女房たちが陰でこそこそと姫さまの悪口を…もともと気の進まなかった後宮暮らしに、追い討ちをかけるような朋輩たちのやっかみ。姫さまは本当にお悩みでした。いつも、『山里の家へ帰りたい』と泣いておられました。もっと早く決心なさっていればこんなことにならなかったのに、と悔やまれてなりません。
きっと今北の方の仕業ですわ。弁の君が継母(今北の方)に告げ口したに決まっています。姫さまに怪しい殿方の影なぞ誓ってありません。今上の御心が少しでも女御から離れないように、今北の方が何かをたくらんだに決まっていますわ!」
声を上げて怒りにふるえる乳母でした。乳母の推測がもし真実だとしたら、今頃姫はどこに…もしやすでに殺されて?尼君は考えてだけで胸がつぶれそうです。
「実の父君に如何に勧められようとも、やはり姫を山里から移すべきではありませんでした。昔から言うように、なさぬ仲の継母とは、努力しても思うようには行かないのですね。華やかで贅沢な後宮暮らしができるとはいえ、人目にさらされる生活に気苦労を重ねていたことでしょう。姫の平穏な暮らしを毎日祈り続けていたというのに、怪しいたくらみに巻き込まれ、生きているのか死んでいるのかすらわからなくなってしまうなんて…長生きすると、我が身が死ぬよりつらい知らせも聞かねばならないのですね」
と声を限りに泣くのでした。
乳母の報告に、家中の者が悲しみに打ちひしがれ、山里の家から泣き声が途切れることはありませんでした。