鈴なり星

平安古典文学の現代語訳&枕草子二次創作小説のサイト

思考青年 その1

 

 

開け放した御簾の向こうの前栽に、雨に濡れた菖蒲の群れが見える。五月の長雨に乾くひまもないその花びらは、涙に濡れた高貴な女人の袖のようで、同じ紫でも、日の光を受けて耀く藤の花とはまた違った風情がある。

ああ、うっとうしいなあ…。

それまで書き物をしていた斉信は、壺庭を眺めながら、大きく伸びをして、そのまま後ろにごろりと仰向けに転がった。文台の上には、書きかけの書類やら筆やらが散らばっている。斎信がうっとうしいとため息をついたのは、五月の雨の匂いだけではなく、今目の前にある書類の始末に対してなのであった。


ここ3日ほど斉信は、宮中での仕事が終わると、空いてる時間は自邸でずっと報告書作成に追われている。
内容は伊周逮捕の顛末についてだ。
逮捕とはいささかぶっそうだが、要は、伊周の花山法王矢射事件から配流までの経過について、帝に提出する書類を書いているのだった。この報告書は斉信だけでなく、もう一人の蔵人頭、行成も作成している。この事件の対応が、斉信は伊周側の中の関白家、行成は道長側と分かれていたので、より詳細な記録を残すために、それぞれの側からの報告書の作成を勅命で承ったのだ。


この一連の事件の経過をかいつまんで説明する。
道隆関白が亡くなった後、道長との仲がますます悪くなった道隆の子伊周は、斎信の妹であるA子さんのもとに通っていたのだが、A子さんの妹のB子さんとおつきあいしていた花山法王を、
『A子に横恋慕している!』
とカン違い、おどしの意味で矢を射掛けたという。これが1月16日夜。これが発端になり、法王襲撃のほかに詮子呪詛事件やら、禁止されている呪法事件やら、次々余罪が湧き出て逮捕せざるを得なくなった。逃げまわる伊周を指名手配してようやく捕まえたのが、事の発端から四ヵ月近くたった5月4日。


事実のみを報告するなら、それほど難しいものではない。重臣の陰謀という重大事件だが、いつもどおりの報告書をつくり奏上すればいい。だが、いつもと違うのは、この事件に今上最愛の女御定子がからんでいる、ということなのだ。
いや、女御定子がこの陰謀に加担したのではない。逆に彼女は被害者であるとも言えた。
流罪が決定した4月24日からずっと、伊周達は屋敷内に検非違使たちを踏み込ませないように、女御定子をいわば人間盾のようにしていたのだ。
にらみあいが続き、とうとう実力行使に踏み切ったはいいが、伊周は逃亡。出家でもすれば許されるとでも思ったのか、4日後に頭をまるめて自首してきた。それでも、護送途中に何度も仮病を使っては、ぐずぐずと居座りを使った。


これほど見苦しいふるまいをした伊周と宮中の間を、この4ヵ月近くの間どれだけ行き来したことか。
最初花山法王が射掛けられた時、帝は綱紀粛正のため犯人を厳罰に処す、と厳しく申し渡されたが、フタを開けてみると犯人は女御のご兄弟。相当衝撃を受けられた、と拝察する。
帝は二条邸立てこもりの模様を詳しく知りたがっておられる。女御ご自身が自らの髪を切ったくらいの修羅場だったからだ。
女御にしがみついていた伊周は、顔をそむけたくなるほどのあさましさ。逃亡が発覚した時の脱力感。蔵人頭として、こんなにイヤな仕事は初めてだった。思いっきり伊周の顔面を蹴り飛ばして、『醜態さらすのもいいかげんにしろ、さっさと立て!』と何度怒鳴りつけたい思いにかられたことか。
全てをお知りになりたい、との仰せとはいえ、表にさらさなくてもいい真実だってあるんじゃないか。全てをさらして『御気色悪し』などと、昼の御座にもおでましにならなくなったら。帝のお胸の内がいつも平安に執務できるように努めるのが、我々蔵人の頭の務めなのだ。さて、どこまでをどのように書いたものか…。


帝や公卿への配慮と、事実の記述をはかりにかけかね、書いては破り、書いては修正し、斉信は次第にイヤ気がさしてきた。

「ああいやだいやだ。もう全然書けませんよーだ」

仰向けに寝転がり、天井を見つめてそうつぶやく斉信。
すっかり思考が空転している。


さらさらと衣ずれの音が近づいてくる。
「だんなさま。蔵人頭さまがお見えになりましたが」
女房がつつましやかにそう告げた。
「ああ…通してくれ」
斉信はめんどくさそうに起き上がり、文台に向きなおした。
軽やかな衣の音が遠ざかってしばらくすると、渡殿を歩いてくる気配がした。
「お邪魔しますよ。ずいぶん熱心に書き物をしている最中ですね。どちらの女性への手紙をそこまで呻吟しているのです?」
「皮肉を言うところをみると、そっちはできあがったようだな」
「そちらと違って現場担当ではありませんでしたので、まあ、楽なものでした。その様子では、あまりはかどっていないようですね」
「ああ。もうぜーんぜんダメ。帝の想像しておられる醜聞以上だと思う。きびしいよなぁ。一応公文書だから、公卿連中も閲覧するわけだろう?こんなの大内記や弁官にさせたらいいんだ。私が口述するからさ」
斉信は大あくびをして、そのまま後ろにごろんと仰向けに転がってしまった。
寝転んだままちらりと行成を見ると、そのへんにほったらかしになっている書きかけの書類を手にとって読んでいる。それを眺めていた斉信に、次第に睡魔が襲ってきた。なにしろ自邸にいる時でも、お呼び出しが常にかかる仕事。24時間態勢なのだ、帝に近侍するということは。
うつらうつらしながら斉信は、次の宿直はいつだったっけ、それまでには…と考えながら眠りに落ちこんでいった。