鈴なり星

平安古典文学の現代語訳&枕草子二次創作小説のサイト

未来予想図 その1

 

 

柔らかな早春の日差しが都大路にそそぐ二月の終わり、斉信は関白道隆の住む二条邸へ向かっていた。
表向きの用事はまったくたいしたことのないものだ。故父為光が祖父師輔からいただいた銀の薫物筥(たきものばこ)を一揃え、お見舞いがてら関白にお譲りするというもの。ごく私的な訪問なので、服装も関白に対面するのに礼を失さない程度の、まあ気楽なものだ。
しかしその本当の用事というのは。
正暦六年から長徳元年に改元されたばかりの二月下旬、関白道隆公は二度めの辞表を上奏した。
うわさではどうやら飲水病を発病したという。
一度目に辞表を出した二月の初め。幸福すぎる関白家に恨みや妬みを買われない様にと、全く辞める気のない形だけの上奏文が提出された。信じられないほどの強引な押し出しで身内だけを昇進させまくった挙句、ようやく世間体というものに気付かれたようだ、と陰で殿上人のあいだでささやかれたものだった。
その後、関白としての一世一代の慶事を登華殿で執り行なったあと、張り詰めていたものが切れたかのように、急速に体力が落ちていったという。



「飲水病ねえ…」
宮中で1、2を争う大酒飲み。政務そっちのけで、毎日毎日、朝からそれこそ夜更けまで飲んだくれる事は数知れず。いつかの葵祭りで、牛車の中で飲み仲間と正体なくすほどに飲みつぶれ、スダレを蹴り倒して、服は脱ぐわカンムリは放り投げるわの伝説に残る醜態をさらした事もある。
今上の唯一人の女御である娘定子がまったく懐妊しないあせりを、酒でまぎらわしていたのだろう、などとは善意過ぎる考えだ。元来、酒には強い御仁、酔いつぶれたようにみえてもある程度時間がたつとスッと抜けるらしい。
が、精神力の方はそうでも、体は正直なものだ。長年の飲んだくれがたたって、とうとう二度目の辞表に追い込まれた。
…だから飲水病と聞いても「そんなバカな」とは誰も思わなかったよなあ。
斉信は関白の日頃の行状をそう思い浮かべていた。
二度目の辞表が提出された時点で、斉信は今上に内密に勅命をいただき、関白の病状と邸内の様子の確認をするため、二条邸に見舞いの訪問に来たのだった。ありていに言えば、回復するのか、もうどうにもならないところまできているのか。殿上人の焦点は唯一つそれのみだ。
…今上は、女御定子の今後に心痛めておられるかもしれないが、政局の行方を見据えることの方が、我らの死活問題に関わる。私が関白邸に出向く事がわかっても、道兼殿も道長殿も何も仰らなかった。私の立場なら、公平に観察や報告できると思われているのだろう。なにやら駒のように扱われている気がしないでもないが、なに、使い回されるのが身上の蔵人頭だ。駒ならば、最高に使い勝手のよい駒でありたいよ。
そんなふうに思案しているうちに、二条邸の表門に到着した。


主人は病中でも、相変わらずきらびやかな邸内だった。磨き上げられた簀子、美麗な几帳、外部者に対してスキのない笑顔で対応する女房。主人の陽気な人柄を反映して、この屋敷の女房たちは皆、訪問者を退屈させない一流のくつろがせ方でもてなすが、今日の対応は少々違う、と斉信は感じていた。主人の準備ができるまでの間、廂の間で美しい若女房数人が話し相手になったが、表情がどことなく固い。強いて明るく努めている感じだ。だからといって、嘆き悲しんでる様子や、病状回復の祈祷の声は聞こえない。どこまでも強気な、弱味を見せない邸内の様子。
対面の準備が整った、ということで、部屋に通される。



「おお、よく来たの、頭中将」
「春とはいえ朝晩の肌寒いおり、少々お体の調子を崩されたと聞きまして、お見舞いに参りました」
平伏してなめらかに言上したあと顔を上げた斉信は、関白道隆を見て驚愕した。
「脇息を手放して座っているのがつらくての。見苦しいが、まあ許してくれ」
「お気使いなきよう、どうかそのまま、そのままお楽に願います」
顔色を変えないで答えるのがせいいっぱいだった。
何かの草紙で、こんな餓鬼の絵を見た気がする。地獄草紙だったか飢餓草紙だったか。肉が落ち黒ずんだ土色の皮膚。袖からのぞく手は青黒い血管が甲に浮き出るばかりで、やはり肉らしきものがほとんどない。落ち窪んだ両目のまわりも黒ずんで、かぼそい声は、腹の底から出せるような気力もなさそうだった。
道隆公は上機嫌に対応するが、もう後戻りできないところまで病状が進んでいるのは明らかだった。
室内には、早春にふさわしい薫物の香りがただよっているが、腐りかけの柑子のような、飲水病患者特有の体臭を完全に消し去る事はできないようだ。暖かな部屋にたちこめる、かすかにすえた匂い。きっと敷物にも几帳にも染み込んでいるのだろう。
近くに控えている女房たちに、自分の狼狽した気持を知られてはならない、と努めておだやかに、心配している風に関白に語りかけた。
「今上も二度目の上表文が出されたときには、お顔を曇らせて、心の底から案じておられる、と拝察いたしました。なんといっても女御さまの御父君。女御さまのお立場が磐石なものになるまでは、まだまだご壮健でいてくださらねば。まことに恐れ多いとは存じますが、拝見しましたところお変わりなき貫禄ぶり。この斉信、必ずやご回復なさると改めて感じ入りました」
お見舞い言上としては、もっと美辞麗句なものがいくつも頭の中をよぎったが、心にもないおべんちゃらになるのを怖れた。適当なタイミングで伝来のお見舞いの品を差し出す。道隆は、なつかしそうに祖父師輔の愛用品のそれを手にとって眺めていた。
そんな関白の肉のそげおちた手の動きを見るのがつらくて、斉信は控えている女房たちと会話を盛り上げようと、明るい話題をひねり出した。しかし話は道隆自身にさえぎられ、かわりに切り出された「内密の打診」事は、蔵人頭が驚愕するに十分値するものだった。