鈴なり星

平安古典文学の現代語訳&枕草子二次創作小説のサイト

陽炎

 

 

地熱にじわじわ暖められた空気で孟宗竹が揺らめいて見える。
ようやく立秋を越えたというのに、まだまだ夏真っ盛りの大暑のような厳しい暑さが続いていた。西に傾き始めた陽は熱く赤く焦れ、熱でよどんだ空気はピクリとも動かない。
「暑い…」
陽をまともに受けて、下を向いた斉信はぐったりとつぶやいた。
烏帽子の中からあごへと汗が流れて落ちる。
「部屋の中だと声がこもって正しく朗詠の稽古ができないと言ったのはあなただろう。
どうしたのだ、もう降参なのか」
簀子に座っている行成が声をかける。返事もせずに、斉信は庭の真ん中からとぼとぼと戻ってきた。
「とても夕刻とは思えない。陽の光が一本一本、火矢になって突き刺すようだよ。
あー暑い暑い暑苦しい。たまらない」
せわしなく扇で自分をあおいでいたが、それだけではとても間に合わないらしく、襟をはだけ袖を肩までまくり指貫をヒザまであげて、仰向けに寝転んで、バタバタとそれこそ貼り付けてある紙も破れんばかりに忙しく扇を動かしている。
行成は情けなさに涙が出そうだった。
目の前で大口を開けて半裸であえいでいる男が、蔵人所を束ねる花形貴公子だなんて、とても信じられない。帝はおろか、部下にも決して見せられない姿だ。ここまで無防備な姿をさらけ出される関係にあることを、喜ぶべきなのか憂うべきなのか。
「こんなことならやっぱり北嵯峨の別荘に行けばよかったよ。めずらしく、おまえと休暇が重なりそうだったのに。千載一遇の大チャンスだったんだぞ。それを」
「仕方ないだろう斉信。わがままな私用で、蔵人頭両名がいちどに帝のおそばを離れるわけにはいかない」
相変わらずの滅私奉公ぶりだ。時々その固さに正直うんざりすることもある斉信だが、それにもましてひたむきさにたまらなく惹かれてるのもまた事実。桔梗がさねのよく似合う、斉信だけの桔梗の君。姿にも本質にも、清潔ななまめかしさのただよう鮮やかな青紫の君が、仰向けになった斉信を心配そうに覗き込んでいる。
その行成の頬を、斉信は手のひらでゆっくりとなぞった。
「今日はずいぶんやさしい物言いなんだな、行成。いつもなら、恋人めいたことをちょっとでもほのめかせば、態度が硬化するのに…あれ?おまえ今日の服、紗に見えるんだけど、そんなうすぎぬだったっけ?私の目がおかしいのかな」
「夏向きの狩衣なのだがややシースルー過ぎたか。まあ今日の暑さは特別だ。
それに…脱いだ後また着るのに、うすぎぬの方がしわが目立たないだろう…?外はまだ明るい」
恥ずかしそうに目をそらしてささやく行成がいた。
えっ?行成、それって、もしかして!もしかして!!
ガバリと体を起こして行成に抱きつきたい気持を必死で抑え、
「…どうしたんだい?ずいぶんと積極的なんだね。いつものおまえじゃないみたいだな」
とすまして言ってみた。
「確かに自分でもそう思う。…陽炎で揺らめくあの孟宗竹を見ていると、何か怪しい術にでもかけられた気分だ。でもたまにはこんな状況に流されてみるのも良いかもしれない」
甘く見おろす行成の目。鈴虫の羽のような、紗の狩衣の袖口からのぞく行成の白い指が、彼の頬をなぞる斉信の手に柔らかく絡む。
行成が、行成がこんな情緒的なお誘いをしてくれるなんて!
内心驚嘆の思いの斉信だった。こんな得体の知れない状況は初めてだ。ああ、でもこれは仏さまがくれた夏の名残の最後のチャンスかも。これを生かさないで何を生かそう。ありがとう!八百万の神さま仏さま観音さま!
行成の顔がゆっくりと近づいてきて、斉信は目を静かに閉じ、体の力を抜いた。


バッシャーン!!!



豪快な水音が響いた。
「しっかりしろ!斉信、斉信!!」
体をガクガクと揺さぶられる衝撃に目を開ける。
「…うう……」
「斉信っ!気がついたか!」
行成が斉信の頬をベチベチとたたく。
「気がついたかって…なんだろう、目がまわる、頭も重い、頬も痛い」
「意識ははっきりしているようだな。よかった。
いいか、あなたは熱中症で倒れたんだ。扇をあおぐ手が止まったのに気がついて目をやると、吹き出ているはずの汗がまったく出ていないじゃないか。浅い呼吸を苦しそうにし始めたから…危ないところだったな」
よく見ると単(ひとえ)一枚になった体が水びたしだ。空の桶を持った家来が心配そうに控えていた。
「行成…おまえが脱がせたのかい」
「直接体を冷やすのが一番だと思ったんで、大速攻で脱がせたぞ。
さ、塩湯だ。梅干しも入っている。飲んだらしばらく横になっているといい。これにこりたら、炎天下で長時間突っ立って練習するのは控える事だ」
重い頭を持ち上げて梅干しを食べ、塩の入った生ぬるい麦湯を飲む。斉信が飲みきったのを見届けた行成は、脱がせた狩衣を持って、家来と一緒にさっさとどこかへ行ってしまった。

どうやら熱中症の見せた幻覚だったらしいな。
そうとも、あんなに私に都合のいい行成がいるものか。
ああでも、できることならあともう少し、もう少しだけ遅く水をかけられていれば…
夢でもいいから本懐を遂げられたのに!!
風のよく通る日陰にひとり寝ころがされた斉信は、水びたしの単の袖で目じりの涙をそっとふきとったのだった。