鈴なり星

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小夜衣37・悲しみの心を分かち合いに山里の家へ

 

 

「山里の家に姫ががおられた頃が懐かしいよ…あの人が待っている、ただそれだけで、がむしゃらに馬を走らせたものだった」
馬に揺られながら在りし日のことをぼんやり思う東雲の宮。
一行が山里に到着すると、どうやら家の者は御堂で夕べの勤行の最中のようです。僧坊から立ち上る煙が、まるで霧が籬(まがき)を結んでいるようで、人目にさらされない慎ましやかな暮らしぶりに、「人生の終わりにはこんな暮らしも悪くない」と東雲の宮は羨ましく思うのでした。
愛しい人はもういないのに、ホトトギスは家の女主人を慕っているかのように飛び回り、垣根の卯の花は変わらぬ美しさで咲きこぼれています。

ほととぎす あるじをしたふ 垣根にも しのびねたえぬ 五月雨の空
(五月雨の空の下、ホトトギスが卯の垣根を飛び回っているよ。まるで宿の主人をさがしているように)

「まるで今の私と同じだな。姫を捜し求める私と…」
しばらく眺めた後、家の中へ案内された東雲の宮は、すぐに尼君と対面しました。
「こんな老いた尼を忘れずにいて下さって、もったいなくもうれしゅうございます」
案内された南面の部屋に参上した尼君の上品な挨拶も昔そのままで、東雲の宮は涙があふれそうです。
「宮さまの御心ざしで、長からぬ我が命もありがたくも延びそうでございます。ところで、失礼ながら最近耳にしたお話では、宮さまは関白家の姫君の御ために喪に服しておられたとか…御心中お察し申し上げます。そんな事情の中にも、私どものことをお気遣い下さりたびたび御手紙を頂きましたこと、まことにかたじけのう存じます」
「何事につけても悲しみから逃れられないように運命づけられている私ですから、毎日嘆き暮らしていますよ。特にこちらの姫の面影は一瞬たりとも忘れることなく心配で心配で…誰か姫の居場所の見える幻術士でもいれば、と思って…」
言い終らないうちに涙のせきあげる宮と、同じく流れる涙を袖で拭こうともしない尼君でした。
「そうでなくともすっかり耄碌(もうろく)してしまっているこの身にとって、姫以外に生き甲斐など見つけられそうにありません。宮さまのありがたい御気遣いゆえに、かろうじて起き上がっていられるのですが…いまだに行方のわからぬ姫は、すでに浅茅が原の露となり果ててしまったのでしょうか。もしそうならば、亡骸なりとも見つけ出しとうございます。この私に反魂香が使えるのでしたら、姫のさまよえる魂をつかまえ、ひと目だけでも会うことができますものを。
人の命とは心憂きもの。命の長きに従って罪も重ねてゆくものです。知らず知らずに罪を貯めて、どうして私は生き長らえているのかと、たまらなく恥ずかしくなる時があります。
世間にも実の父親にも半分忘れられたような心細い身の上の姫と、肩を寄せ合ってこれまで生きてきたのです。あの姫は、私の生き甲斐だったのです。その姫が行方知れず…私の心中はお察しいただけるでしょうか」
むせび泣く尼君の様子は哀れの一言に尽きます。
「しかしながら、尼君は長年にわたり仏に仕え、勤行に励んでこられた身。神や仏がお見捨てになるはずがありません。やはり今回のことは周囲の者が申しているように、按察使大納言殿の今北の方の謀り事ではないかと思います。今上のお情けが女御より対の御方に大きく傾いていると思い込み、どこかに隠しているのでしょう。このことについては、今上もひどく心配しておられます」
「私には後宮の暮らしぶりなぞ想像もできませんが、我が娘(=姫の母親)が生きていた頃から、大納言殿の今北の方がどれほど恐ろしいご気性の方か骨身にしみていますので、あの屋敷に関わるのはなるべく避けて参りました。その経緯は、姫の父親の大納言殿もよくご存知のはず。ですが、私が病気になり、こんな山里の小さな家で心細く過ごすより、実の父親に引き取られたほうが必ず幸せになれる…そう信じて大納言殿に姫をお任せしました。
あの時、もっと不審に思えばよかったのです。
今までずっとほったらかしにされていたのに、どうしてこんなに急かすように引き取りたいなどと…。
あの時、私が判断を誤りさえしなければ姫は…ううっ」
尽きぬ後悔に泣き崩れる尼君。
宮も、意に反して関白家の姫君を妻としなければならなくなったことなど、ここ数ヶ月の近況を包み隠さず打ち明けました。
「ずっと以前から仏道に励みたいと思い続けていたのですが、両親の嘆きが目に浮かぶようで、それもまた出家の妨げになりましょう。ですから、俗世を断ち切ることを今日まで思いとどまっていたのです。今はもう、この世に未練など全くありません。誰も松の長寿にあやかれないのですから、勤行に励んで来世へ備えたいと思います」
と夜の更けるのもかまわず二人はしみじみと話し込むのでした。
その後、「老いた身に夜更かしは堪えますので」と奥で入ってしまったので、宮は一人でぼんやりと部屋を眺めていました。
姫が使い馴らしていた質素な調度類、二人寄り添って月を眺めた柱。
ふと部屋の奥の障子に何か書かれているのを見つけた宮が近寄ってみると、それは姫の手蹟で書かれた和歌でした。

かき絶えし 人の心の つらさより 絶えぬ命の うさやまさらん
(あの方の心変わりよりつらいのは、この私の命がまだ続いているという情けなさなのだ)

忘られぬ 心のうちは うつつにて 契りし事は 夢になりつつ
(あの方への思いを忘れられない私の心は現実のものだが、あの方が語ってくれた愛の言葉はどうやら夢だったようだ)

悲しい歌が乱雑に書き重ねられ、それが姫の心境をそのまま表しているようで、宮は申し訳なくて申し訳なくて涙がとまりません。
「この世ならず来世までもと誓ったのに、我が本意でなかったとはいえ、長らく夜離れてしまったのは事実だ。決して姫のせいではないのにこんなに苦しめてしまった。

もしほ草 かきあつめたる あと見れば いとどしをるる 袖のうらなみ
(姫が書き残したたくさんの歌を見れば、海女の袖のように涙でしおれる我が袖よ)

なんとか誤解を解きたい。そして謝りたいのに、もう二度と姫には会えないのだろうか」
もどかしい気持ちを持て余し、妻戸を押し開けると、澄み渡る月は夜空の果ての雲までくっきりと照らすよう。ああこんな美しい月も共に眺めたものだ、と月影も涙ににじむのでした。

わびつつは 袂の露に やどりつる 月にとはばや 人のゆくすゑ
(涙の中に宿る月影に問うてみたいよ。姫の行方を)

かき乱される気持ちを落ち着かせようと、宮はお経をゆるゆると唱え始めました。その朗々たる美声に、寝静まっていた女房たちが目を覚まします。宮の麗しい声をほめそやす女房たちの中、なかなか寝付けられずお経を口ずさんでいた尼君は、さらに心細くなっていくのでした。夜明けが近づき宮が帰京する時刻になり、端近でお見送りする尼君の顔に押し当てた袖からは、涙のしずくが後から後から流れ落ちるのでした。
暁の美しさに誘われたホトトギスがどこかで鳴いています。

ほととぎす おなじ心に ねをぞなく 昔をいかに しのぶ心ぞ
(どんな思いで鳴いているのだろう。私の心を知っているかのように鳴くほととぎすよ)

しのびねは 我もたえせぬ 我が宿に 山ほととぎす とふぞうれしき
(しのびねをもらす我が家に、ほととぎすがなぐさめに来てくれるのはうれしいことです)

出立の時刻になり、山里の家では皆が皆、二度と会えないかのように泣きじゃくっています。そのせつなさに、山を下りる足も止まりがちな宮たち。

立ちかへる 袖ぞ濡れます 白波の みるめなぎさの 浦とおもふに
(来るとき以上に涙で袖が濡れてしまう。姫と会えない場所(=みるめなき)だと思うと)

「こんなに愛し合っているのに、いったいどんな前世の因縁が、涙ばかりの二人にさせているのだろう」

こうして、東雲の宮は山を下りたのでした。