鈴なり星

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古今著聞集・宿執2 486~492段

 

 

486段 楽人時資、院の勅に反し、寵童に奥義を授けぬ事

白河院が御在位だった頃の話である。
ある時時資(ときすけ)という楽人が帝に召され、当時帝のご寵愛だった二郎丸という名の稚児に、貴徳と納蘇利の楽の秘儀を授けよという勅定がおりた。が、時資は固辞した。再三のお召しにもかかわらず、時資は首を縦にふらなかった。時資は、
「彼は今上さまの歓心を得るべく一通りはこなすでしょう。ですが舞楽を職業としない者が、本気で打ち込む覚悟が果たしてあるかどうか。秘儀が他人にもれると必ずや音楽は廃れてゆくもの。成人して後に見苦しい音を吹き散らすことを私は心配しているのです」
と帝にはっきり申し上げたのである。
お気に入りの稚児に難クセをつけられ、怒った帝は時資を追い払った。
次に帝は北面武士で楽に秀でていた則季(のりすえ)を召し、二郎丸に青海波の左舞の秘儀を教えよと命じた。則季は勅定に応じ、二郎丸は見事に舞った。この功績により、則季は北面の武士から左兵衛尉に昇格したのだった。
何年かして後、二郎丸は白河帝の寵愛を失い、捨てられた後は伯耆(ほうき)国に落ちぶれて行った。その地で彼は、
「この舞は、畏れ多くも帝より教えていただいたもの」
と中途半端な秘儀を披露しているとか。噂を聞いた白河帝は、
「先年時資が心配していた通りになってしまった。これでは楽の伝統が衰退してしまう」
と後悔しておられたそうな。
それから後、八幡別当の頼清(よりきよ)が、自分の寵童の小院(しょういん)と石壽(せきじゅ)に師匠をつけて、陵王と納蘇利の秘儀を習わせようとした。小院には光季という者を、石壽には助忠という者を師匠につけた。ところが二人の稚児は、舞い方は教わったが、肝心の口伝は習わせてもらえない。
「舞の一切を教えよ、と師匠たちに申したはず」
と怒った頼清は、白河帝に訴えた。
ところが帝の返事は、
「『秘すればこそ、道はみちにてあれ』ならば当然の事」
ととりつく島もなかった。
過去に二郎丸の一件で痛い目に遭ったことを、白河帝は忘れていなかったのだ。
その後、寵童小院は成人してのち基政と名乗り、鳥羽院の笛の師範にまでなった。もう一人の寵童石壽は清方と名乗り、雅楽寮では笙(しょう)の第一人者となった。
口伝となっている奥義が軽々しく広まるのは避けねばならないが、かといって奥義に執着するあまり頑固に隠し過ぎるのは罪深いことではないか。


487段 六波羅別当長慶、秋風楽を聞きながら死ぬ事

六波羅蜜寺の別当で琵琶の名手長慶は、楽の名人院禅の弟子だ。この長慶が亡くなる時、笛の名手時元が見舞いにやって来た。時元の姿を目にした長慶は抱き起こしてもらい、
「頼みがある。『倍臚』を今一度聞いてみたい」
と懇願したのだ。
時元は笛の旋律を口ずさんだ。長慶は感無量でむせび泣いた。そうしてしばらく時元は、長慶のためにいろいろな曲を口ずさんでいたが、『秋風楽』の最後の方を歌っていたとき、長慶はついに息を引き取ったという。

 

 

488段 徳大寺の左大臣実能(さねよし)の宿執の事

崇徳天皇の御世、左大将を右大臣源雅定が、右大将を徳大寺の左大臣(藤原実能)がそれぞれ兼任していた。
そのうち左大将の右大臣は出家してしまったわけだが、まもなく保元の乱が勃発。勝利した天皇方についた右大将実能は、世の中が平定されて後非常に栄えたが、病を得て一年も経たずに出家、菩提院というところに居を構えた。
ある日病床の実能のもとを、同じく出家した右府入道(前右大臣雅定)が見舞いにやって来た。部屋には実能の長男の公能(きんよし)が控えた。
左府入道実能は、
「かつては左右の大臣として帝に等しく仕え、やはり左右の大将として等しく並び立ったものですが…同じく出家した我々の現在はどうでしょう。あなたは生き生きと毎日を勤行に励み、私はと言えば今日明日をも知れぬ病に侵されています。こんな見苦しいさまでの対面まことに申し訳ありません。万が一、病気が回復しましたら、必ずやあなたのもとへお礼言上に参りましょう」
と言う。
その鬼気迫った物言いに右府入道はたじろぐ思いだった。
見舞いが終わり、帰ろうと立ち上がると、左府入道の息子の公能が庭に下りて右府入道に深く一礼する。同じく左府入道の三男の大納言公保が、門のところまでお見送りした。
ほどなくして、左府入道は亡くなった。
この左府入道、かつての除目で、若輩者の自分が右大臣雅定を頭を飛び越え右大将に任ぜられたのをよほど気にしていたらしい。
「右大臣に申し訳がない。すべり人事とはいえ、ポスト争いは陰湿で熾烈なもの。この私が先に大将になってしまい、顔にこそ出さないが、右大臣殿はさぞかし恨んでいるに違いない」
と長年思い込んでいただけに、このたびの右府入道のお見舞いにはたいそう感激していたという。

 

 

489段 孝博の入道、管弦に執心の事

近衛帝の御世の話であるが、孝博という名の入道が重い病にかかった。当時宰相中将だった藤原師長が見舞った際、苦しい息の下で、
「何か音楽をお聞かせ願えませんか。楽の音を聴けば、しばらくの間はこの苦しみから逃れられるでしょう」
と宰相中将に懇願した。
中将はさっそく楽人を召して孝博入道に聴かせた。じっと聞き入っていた孝博入道はとても満足そうな顔で、
「ああ、すっかり楽になりました。痛みも苦しみも何もかも忘れられそうです」
そう感謝したという。
やさしい心遣いを見せた中将だった。
普通、重病のお見舞いですることといえばまず念仏なのだが、この入道は何をおいても楽の音を欲した。これもまた宿執といえよう。

 

 

490段 京極大相国宗輔、笛に執心する事

笛の名手であった京極大相国宗輔公は常々、
「死は誰にでも等しくやってくる。いかなる人間も逃れることはできない。ゆえに、死に悩んでも意味のないことだが、唯一つ心の悩みは『死んだら笛が吹けなくなる』ことかな」
と半分冗談混じりに言っていたものだが、応保2年1月30日に86歳の長寿を全うした。
宗輔公が亡くなって後、二条帝が彼の作成した笛譜についての質問を、彼と親交のあった妙音院殿(師長公)に問うたことがある。その時妙音院殿は帝の御前で質問の箇所を演奏してみせた。
その夜妙音院は不思議な夢を見た。
夢の中で、亡き相国の名前のある手紙を見つけた。
広げて見ると、
『私の譜をそんな解釈で演奏されるとは口惜しい限り』
と書かれているではないか。飛び起きた妙音院は大急ぎで帝のもとに参内し、
「記憶違いの拙い音をお教えしてしまいました」
と、改めて演奏し直した。
死んでも自分の楽譜にこだわり続け成仏できない…執心とは何と哀れなものか。

 

 

491段 知足院忠実、宿執ゆえに筝の琴を弾く事

知足院忠実のお気に入りの女房に小物御前という人がいた。
彼女は後に播磨殿と呼ばれる人なのだが、忠実入道が亡くなられた後、形見の遺影のそばに筝の琴を立てかけたままにしていた。
その筝の琴が、誰もいない夜更けにふいに鳴る時がある。
入道の魂が筝から離れずにまとわりついているのか。
何かを願かけするとき、願いが叶うならその筝の琴が鳴り、叶わぬならば筝は黙ったままだとか。
不思議な筝の話である。

 

 

492段 藤原守光、重病をおして薩摩から釈奠に赴く事

中務省の大監物藤原守光はたいそう優秀な侍学生だった。
高倉帝の御世、薩摩守重綱とともに九州に下ったのだが、かの地で重い病にかかり、なかなか回復しなかった。
ある時彼は、都で行われる釈奠(せきてん。孔子とその弟子を祭る行事)に出たいと言い出した。「重病に長旅なんて」と友人たちは止めたが、それらを振り切って出発した。
二週間後、病と旅の疲れでふらふらの守光が釈奠に参加していた。ひどくみすぼらしい服装で、立っているのがやっとのよう。まじめな侍学生の彼はさぞかし無念だったろう。それでもここまで来れたのだ。これも宿執といえよう。