鈴なり星

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古今著聞集・宿執4 497~500段

 

 

497段 わずか七つにして芸道に執心する子の事

法深房藤原孝時は20歳の頃より熊野詣を始めた。
「私の芸が父に及ばないのでしたら、今すぐこの命を取り上げて下さってかまいません」
参詣のたびにそう祈り続けた甲斐があってか、その後彼は琵琶楽の第一人者になった。
彼には七つになる娘がいたが、幼いせいもあってなかなか琵琶の練習に励もうとしない。ある時孝時は娘を懲らしめようとして、練習用に使っている小さい琵琶を隠したことがあった。
「おまえはもうずっと怠けたままでよろしい。そうやって琵琶のことなど忘れてしまいなさい」
練習をすっかり忘れていたせいで、自分の琵琶がなくなったのがよほどショックだったのだろう、娘は泣きじゃくって父に謝ったが父は許さなかった。その後も娘は折にふれて父に謝ったが、父孝時はとうとう許しはしなかった。
しばらくして、この娘と母親が賀茂神社へ参詣に行った。帰宅してから、
「何をお願いしたの?」
と母親が訊ねると、娘は、
「琵琶の上達だけをお願いしました」
そう答えた。孝時は娘の健気な気持ちに応え、隠していた小琵琶をようやく返してやった。
娘はとても喜んで、以後は熱心に琵琶の練習をするようになり、長じて後は琵琶の名手となった。
わずか七つの子でさえ執心の心を宿すとは何とも痛々しいものがある。


498段 法橋が今わの際に万秋楽を請うた事

革堂行願寺(こうどうぎょうがんじ)に全舜(ぜんしゅん)という名の法橋(ほっきょう。律師のこと)がいた。蹴鞠や筝の琴の上手でたいそうな風流人だったが、ある病気がもとで食事がとれなくなり、今日明日をも知れぬ危篤状態に陥った。
全舜は、木工権頭で琵琶の名手孝道のもとへ使いをやり、
「今宵にも命が尽きようとしております。願わくば今一度お目にかかり、少しでも安らかに死出の旅路を歩ませてください」
と頼んだ。孝道はびっくりして飛んできた。全舜は、
「あなたさまの琵琶の音を聴かねば死んでも死に切れません。万秋楽の序だけでもいい、弾いていただけますまいか。今わの際に聴くべきともされる万秋楽を耳にしながら、あの世へ旅立ちたいと思います」
孝道は琵琶を持ってきてもらい、謂われるがままに演奏した。全舜は涙を流して喜び、磬(けい。仏教儀式用の打楽器)で拍子をとっていたが、まもなく絶命したという。


499段 大神基政の子孫が嫡々相伝を死守した事

『羅陵王』の荒序という曲は、笛を吹く者にとって秘中の秘なる曲だ。中国の美貌の王が素顔を仮面で隠して戦を指揮し勝利したという内容のこの秘曲を、鳥羽院の笛の師匠の楽師・大神基政が伝えて以来、一子相伝門外不出の曲とされてきた。
ところが、基政の子孫の宗賢の代で、宗賢が息子二人にこの秘曲を伝えてしまい、兄の景賢がプライドを傷つけられ大激怒。後鳥羽院に直訴し、以後は「嫡々相伝とすべし」という『院宣』を取り付けたのだった。
嫡伝の院宣を勝ち取った景賢は息子の景基に相伝し、やがて死去。景賢の死に際して、院宣騒ぎで彼の弟の成賢(系図では式賢となっている。誤字か)に恨まれ殺害されたという噂が立った。
景基は実父・景賢の重い喪に服していたが、この年の放生会(ほうじょうえ。捕らえた鳥獣や魚を放し、殺生を戒める宗教儀式。八幡神社で行われる)に羅陵王の荒序が演じられ、演奏者には亡父・景賢の弟である成賢が選ばれたと聞き激怒。
喪中という穢れの身ながら放生会の責任者である大納言源通具(みなもとのみちとも。堀川大納言)らに、
「羅陵王荒序を演奏できるのは我が流派のみ。院宣でそのように約束されております」
と訴えた。しかしこの時、成賢は楽所の笛の首席奏者であり、一方の景基はといえば次席でしかも重服(重い喪中)の身。神事で演奏できる立場でなく筋違いの訴えだ、と大納言らは決め付けた。だが景基は、
「失礼ながら、上卿様方は放生会という神事を取り仕切る責任者ではあらせられますが、管弦の細かなしきたりに関してはあまりご存知ない様子。『羅陵王荒序におきては嫡々相伝して吹くべし』との院宣をいただいております。
祖父宗賢は長男の景賢へ、そしてその嫡男の私へと言うのが正当な流れであり、いかに楽所の第一人者とは言え、ここに成賢殿が入り込む余地などあるはずもございません。
それに、重服であっても『楼門の下で、軒先の雨だれが落ちる線より内側で神事の御用を務めた』との先例がございます」
と必死で訴えた。大納言たちが確認したところ、
「院宣が絡んでいるのなら、無理に成賢に演奏させると、面目を潰したの潰さないのと遺恨が残るかも知れぬ。今回は荒序の演奏だけを省くこととする」
と摂政・藤原家実の決定が下された。
景基の勇気の勝利である。下位の者が公卿に異議を申し立てるのは異例中の異例だったが、内容は理にかなっており、特にお咎めもなかった。
その後景基は順調に昇進し、大神一族では最高位の五位の将監になり、一家は繁栄したとか。


500段 葉室広嗣出家の時、執着に催され詩歌を作る事

前中納言・葉室広嗣(はむろひろつぐ)は藤原北家勘修寺流の名家に生まれ、家格に恥じない詩歌の才能に恵まれた人物である。
寛元4年(1246年)後嵯峨天皇の譲位以後、彼は仙洞御所で院司として活躍した。私利私欲に走ることない清廉な人柄のゆえか、30代半ばから次第に出家の思いが強くなり、42歳の頃に曽祖父・葉室大納言光頼が住んでいた桂の里に山荘を構え、翌年43歳で官を辞し剃髪、出家を果たした。
出家前夜、きちんと威儀を正して院・摂政・前摂政のところへ順番に参内し、いつもと違うかしこまった態度を皆が不審に思ったが、女房たちの、
「もしや何かひどく思いつめてはいらっしゃいませんか」
との問いにも、
「そんな気持ちはまったくありませんよ」
と穏やかに答え、そしてその夜さっさと頭を丸めてしまった。
その時に作った詩歌がある。

齢四十三の八月十四日、出家の喜びを吐露して詠める
遥尋祖跡思依然
葉室草庵雲石前
願以勤王多日志
転為見仏一乗縁
暁辞東洛紅塵暗
秋過西山白月円
発露涙零除鬢艾
開花勢盛観心蓮
長寛亜相遁名夜
靖節先生掛官年
(ああ、憧れのご先祖さま
 あなたが見たと同じ雲を眺め庭石を見
 この身を朝廷に捧げたと同じ気持ちで
 今日から法華経ひとすじなのです
 俗世と別れて早や一日
 秋の夜空には円(まる)く輝く月
 私は出家の喜びにむせび泣くのです
 心の蓮を咲かせる時がやってきました
 今宵はご先祖さまが出家した夜のよう
 今の私は靖節が隠棲した歳と同じ歳)

敬愛する靖節先生、すなわち詩人・陶元亮が退官帰郷したのは43歳の時。我が曽祖父大納言光頼が出家したのは仲秋前夜の8月14日。この因縁と目の前に広がる自然の趣が心にしみる。我が人生に悔いなしだ。

葉室山あとは昔におよばねど入りぬる道は月ぞかはらぬ
(ご先祖さまには遠く及ばぬ私だが、歩む道は同じなのだ)

極楽の道のただぢをふみそめて都のにしは心こそすめ
(極楽へ向かう道を歩き始めた私。西方浄土を慕う心は澄み切っている)

これらの漢詩と和歌は次第に世間に広まり、仏道を目指す人々の心を打った。今月今夜の今宵の月の例えではないが、曽祖父が出家した日や陶元亮の隠棲した年齢と合わせたあたり、広嗣はずいぶん前から出家することに執着があったようだ。