鈴なり星

平安古典文学の現代語訳&枕草子二次創作小説のサイト

未来予想図 その2

 

 

「ごり押しにもほどってものがあるだろう」
帰る道すがら、斉信は憮然とした面持ちでひとりごちた。
『わしの病が回復するまでの間、息子の伊周に文書の内覧をお許しいただきたい。あれももう内大臣として一人前になったと思う。公卿への根回しはまだしておらぬが、この議、何としてでも今上の許可をいただきたいのだ。ご意向を伺ってはくれぬか』
わずか21歳で「内大臣として一人前」とはちゃんちゃらおかしい。お手盛り人事の親バカまる出しで官位をつり上げられただけの青二才に、どれだけ内大臣としての経験値があるっていうんだ。死ぬまでヒイキしていろ。
死ぬまで―――。
斉信は我ながら不吉な言葉が出てきたものだと思った。
…あれではもう、長くはあるまい。たった一人の女御が生みまいらせるであろう御子のことを思えば、おのれの血族でガッチリ後見を固めておく必要がある。内覧の許可をとりつけて、いずれ関白の跡継ぎに、と既成事実をつくろうとお考えになったのに違いない。
後宮の女御がたった一人という、お気の毒だがお幸せな今上は、愛妃の兄上にいたく好意的だ。申し入れられれば、いやとは仰せにならないだろうが、さて、関白がお亡くなりになられたあと、あのお坊ちゃまが、腹黒公卿たちを抑えきって自力で関白の位にのしあがれるのか。いやいや道隆公は、最後の力をふりしぼって息子を関白の座に据えてから死ぬかもしれないし、そうなれば関白家の、そのバックにひそむ高階一族のこの世の春になる。
一度「死ぬ」という言葉が浮かんだ斉信は、抵抗なく「関白死後」の政局に思いをはせる。
向こうっ気は強いが他人の心が読めない伊周。
出世は早いが政治的かけひきのヘタな伊周。
尻に青あざが残ってそうな幼児性を時おり見せる伊周。
その伊周が一番の関白候補だとは。
斉信は、その他の有力公卿を頭の中に描いてみる。
右大臣道兼殿…道隆公の弟。関白としての器の大きさはどうだろう。入内するのにちょうどいい姫がおられる。道隆公に頭を押さえつけられて今まで女御を差し出せなかった公卿たちの先鋒になるだろうな。そういえば大納言道長殿にも幼い姫がおられた。この方もいずれ女御にと差し出されることだろう。左大臣源重信翁…は、この関白争いの輪には入り込めない。『藤原』じゃないんだから。
損得でもって蔵人頭という職務を果たしてはいけないが、それでも自分の信念は持っていたい。今上が、お心平らかに政務に励まれるお相手。腹黒公卿を束ねられるお方。美しく力強く活気に満ちたこの国を実現できるお方。そんなお方が今上のおそばで関白として執務の手助けをされる…それだけが私の願い。


『道隆さま。世継ぎの御子が見たいならお酒を我慢しろ、と言われれば我慢なさいましたか』


道隆の前を辞する際、こんなふうに聞いてみたかった。
それなら我慢できたか、と。
なんて答えるだろう。死を予告するようで、とても口には出せなかったが。
でも、あの屋敷の者は、みんなそう思っている。
お酒さえ控えていれば、このままずっと繁栄が続くはずだったのにって。


「頭中将どの、こんな時期に優雅に薫香の材料つきですか」
邸に遊びに来ていた中将宣方が明るい声で聞いた。
「おしゃべりな女房がいたな。調香のことは秘密にしておけと言っておいたのに。まあね。忙中閑あり、というから。こうしておのれを静かに見つめる時間をやりくりしているのさ」
「忙中どころか忙殺ですよね」
そう言って宣方はハハハ、と笑う。
関白道隆の三回目の辞表が出された四月の初めである。内裏と二条邸の往復で、斉信は文字どおり馬の鞍を下ろすヒマもないくらいの忙しい毎日だった。
「早めにお伺いしてみたら、女房がたが頭中将どのの居場所を教えてくれないんですよ。なるほど、秘密の調香は誰にもジャマされたくないですもんね。それに、頭を冷やす時間も必要ですよね。私も仕事仕事で先が見えなくなるくらいの状況になったら、マネして調香をしてみようかなあ」
さすがだなあウンウン、とうなずいている。
三月半ばを過ぎる頃から斉信は、二条邸と内裏の往復に追われ始め、自邸に帰るのはほとんど衣食の為だけ、という事態になっていた。
今上の御前はともかく、伊周の前に出るのは仕事とはいえ辟易していた。
あいつめ、なんで自分の思い通りにならないからって、ああも感情あらわに罵倒されなきゃならないんだ、と。
道隆公を見舞った日から、熟慮に熟慮を重ねた斉信は、関白家に距離を置くことに決めた。
…仕事は仕事。本音は本音。たとえ道隆公が関白職を伊周に引き継いで死んだとしても、伊周にはそれを維持できまい。そうやって、高階ジジイ殿のあやしげな呪法にいつまでもすがりついてろ。
次の関白の位がどなたにゆずられるのかは、私のような下っ端にはわかるはずもないが、とりあえず、極上の練香をいくつか用意しておく必要はありそうだな。最低でも三年は寝かせなければならないし。他にも今から手を打っておかなければならないことは、いくらでもある。三年四年先を見越して動かないと、殿上人なんてやってられないよ。
これからつくる薫香は、国の柱となって今上をお支えするお方の娘にさしあげるもの。これから世の中は急速に変わっていく予感がする。はやり病で誰がどうなるかすら誰にもわからないのだ。だからこの気持は、今は秘して行動しなければ。
世の中の不穏な空気に宣方は気付いているのかどうかは知らない。だが、これからやってくる未来の予想図を想い描いた時、楽観できる材料などどこをさがしてもないのだ。にこやかに宣方と話しながら、自分の信念を曲げるような日が来ることのないように、と祈るばかりの斉信なのであった。


(終)