鈴なり星

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無名草子7・勅撰集、私撰集の意見を交わす

 

 



中務
そうね。今までああだこうだと言ってきたことは皆作り事と言えば作り事ですもんね。物語なんだもの。歌物語なんかは、和歌中心の当代有名人の恋愛話で、実話だものねえ。『伊勢物語』や『大和物語』は実際の出来事と思えば感慨深いわ。

 

少納言
『伊勢』は、ただ在原業平の色ごのみを歌にまかせてつくったものにしか思えないけど。『大和』だってそうよ。この世に生を受け人で、位の高い人も低きも、少し物のわかる程度の人なら『伊勢』『大和』を読んで記憶してない人がいるかしら。
作品中の歌のよしあしは、『古今集』を見ればいいわ。二つの歌物語の中の良い歌は、この中に全部入ってる。

 

右近
では古き新しきの区別なく、勅撰集の中でどの歌集がすぐれているかしら。

 

中務
勅撰という名がついて、いい加減なものは何一つないでしょ。だから改めて論ずる必要はないんじゃない?
『万葉集』などはあまりにも古代すぎて私には論ずる事はできないわね。
古い詩歌はどれも優美だと言うけど、『古今集』こそ返す返すもすばらしいわ。歌のよしあしなど口に出す事すら恐れ多いというものです。何といっても、醍醐天皇が選びに選びぬかれた歌ばかりが収められていますから。
『後撰集』は歌の言葉も姿も神々しすぎてちょっと敬遠したいわ。私のような取るに足らない者の頭ではわかりにくいもの。

 

少納言
万葉集・古今集・後撰・拾遺・後拾遺・金葉・詞花・千載は八代集というわね。『後拾遺』にはよい歌がたくさん入ってるわね。でも『古今集』が一番すばらしいと私は思うわ。
藤原公任撰の『金玉(きんぎょく)集』は私撰集だけど、これはステキよ。そこに収められた詩歌は心も言葉も姿もそろっていて、とても優美だわ。

 

小侍従
では、勅撰集は論ずるのはあまりに畏れ多いので、個人個人で集めた私撰集、いってみましょう。

 

中務
俊恵が撰した『歌苑集』、顕昭が撰した『今撰集』などは、世間一般では良きものといわれているけど、でも私はちょっとね。はっきりダメ!とは言わないけど、撰者の人柄によるんでしょうね選ぶ歌ってのは。私には合わないわ。
道因が撰した『現存集』、賀茂重保が撰した『月詣和歌集』なども立派なものでしょうが、やはり奥ゆかしいとも思えないわ。
さらに『奈良集』という歌集もあるそうね。なんでも、奈良の諸寺の僧が詠んだ詩歌を集めたものだとか。まだ十分見てないけど、僧だけだなんて、きっと視野の狭い歌集に違いないわ。

 

右近
でも私撰集は、題詠歌だけ集めて歌を詠まなければならない時にとても重宝するとかいうけど。

 

少納言
題詠歌なら、私撰集でなくてもあるわよ。
『堀川院百首』『新院(崇徳天皇)百首』、あとは藤原良経さまが左大将であられた頃に撰なさった『六百番歌合』なんかが有名ね。
ああ、一度でいいから詩歌を選んで歌集をつくるような身になってみたいわ。

 

小侍従
『千載集』は俊成さまのおつくりになったもので、とても奥ゆかしくてすばらしいものですけど、歌人に遠慮なさりすぎたのかしら、それほど良い歌でないのも結構入ってるのよね。末世といわれて久しい世に、この和歌の道だけでも、いついつまでも絶えることのないように続いてほしいわ。歌人の地位や身分に遠慮せずに、本当に良い歌だけを選りすぐってくれたら、どんなにかすばらしい歌集になったことか。

 

老尼
それにしても残念なことですわ。女という身分ほど口惜しいものはありませんわね。情緒を愛し、どれほど才能にあふれていても、女というだけで撰者になることがどれほど難しいことか。
詠んだ歌が選ばれるということだけでも難しいのに。

 

少納言
後世に、何か一つだけでも作品を残せる様なすばらしい才能を持って生まれたかったわ。深窓の姫君とかどこかの高級貴族の北の方とか、世間の目から隠されてるそんな人ならともかく、私のように女房として表に顔を出して立ち動いているのに、『すごーく才気走った女房がいるのよココ。ステキなサロンなのよ』とも言われず、名も残せないまま生涯を終えるのは本当に残念なことだわ。
物語や和歌はまだ女の立ち入れるスキがあるけど、漢詩なんか立場ないもの。漢字を知ってるっていうだけで、鬼を見るような目で見られるし。物語だって、男も創作できるってんで、まだ文学の範疇に入れてもらえるけど、『ナントカ日記』の類なんて日の目も当たってないし。

 

小侍従
少納言の君、ぐちっぽくなってきてるわよ。

 

右近
そうよ、気分湿らせてどうするの。ここは知的な交流の場なのよ。物語論も歌集論も意見交換ずいぶん楽しかったわ。
じゃあ次は、それらをつくった方々に日の目を当てて語ってみましょうよ。