鈴なり星

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大嘘今昔物語 その3

 

 

月明かりに慣れた目に、田舎風に小柴垣をめぐらした前栽が、ぼんやりと見える。
風が涼しく吹き、泉水の水音が心地よい。
この屋敷が完成する頃には、虫の声も草むらに響き渡り、蛍も宵闇に濃く淡く光を放ちながら飛びめぐることだろう。池の水際の夜景もまことに美しいだろう。そんなことをぼそぼそと、とりとめもなく語って気をまぎらわす。紙燭ひとつの土の上だが、なんとも居心地が良い。この空間は、斉信の人柄が意識的あるいは無意識的に醸し出すもの。これに惹かれて自然と人が集まるのだ。公任も例外ではない。やはり斉信には、人を動かす魅力があると思っている。ただそんな、斉信のうれしがるようなことを面と向かって言ってやるつもりはぜんぜんなかったが。


やがて。
さきほどまでゆるやかに吹いていた川風が、いつのまにか止んでいることに公任は気づいた。月は相変わらずあたりを照らしているが、わずかに鳴いていた気の早い地虫たちの声がまったくしなくなった。公任が斉信を見ると、和やかだったその顔が、こわばったように一点を見つめて動かない。
現れたか!
直感で感じた公任は、斉信が見つめている方向にくるりと振り向いた。とたんに体が動かなくなる。これが金縛りか。指一本動かせない。声を出そうにも喉がしめつけられそうだ。何だ、何が出てくるのだ。あのほとんど干上がった水の中から。脂汗が額を流れる。公任は恐怖を感じた。
干上がりかけた水の中から、女の髪が現われた。胸が、手が、下半身が、徐々に水からぼうっと浮かびあがる。顔をあげた女が月明かりの中、こちらをじっと見ている。
女は唐風の不思議な衣装をまとっていた。それに、顔や手にびっしりと生えたウロコ。シロヘビのヒフのようだ。公任はおぞましさに吐き気を感じた。もう美人かどうかなんてわからない。気味が悪い。足がすくんで全く動けない。
そんな恐怖で体の固まった公任の横を斉信は通り過ぎて、異形の女のもとへ駆けてゆく。
公任はド肝をぬかれた。
おまえ、おまえ動けるのか!?なんで?
斉信は、うるわしき水の精(斉信目線)の前にひざまずく。うやうやしく。それはそれはもうカッコよく。
「ようやく私の前に現われてくれましたね、可愛い方。
可哀想に、こんなにはかない姿になって。月明かりに溶けてしまいそうですよ。ああ、私はちっとも怪しい者ではありません。そんなおびえた翡翠の瞳をする必要はないんですよ。何があなたを苦しめているのですか?たった今から私はあなたの忠実な下僕。あなたの嘆きを取り除くためだけに、私はここにいるのですから。
ああついでにあいつもです」
斉信は美しく明瞭な声でそう言い、階の横で固まっている公任を指さした。
斉信の、状況にうっとりはまりたがるこの性質は、もう本当になんとかならんのか!かんべんしてくれ!
公任は舌打ちをした。とたんに金縛りが解ける。おどろいたが、とにかくありがたい。恐怖心に体が縛られてしまったんだろう。
「礼を言うぞ斉信。おかげで体の自由がきく」
そういいながら公任が走り寄ってきた。
異形の女の容貌も、もうあまり恐怖を感じない。結局は心の持ちようか。
まったくの平常心だった斉信に舌を巻く思いだ。
いや平常心じゃない、わけのわからないニヤけた妄想が、恐怖心に勝ったってことか。そんな理屈でもつけないと、やってられない公任だ。
「わたくしは水の精でございます。
普段は賀茂川の上流に棲んでいるのですが、先日、この池の端で遊んでおりましたところ、いきなり土くれが降ってきまして、池が二つに分かれてしまい、賀茂川につながっている方の池へ戻れなくなってしまったのでございます。
助けを求めても、わたくしを見て皆動けなくなるか気絶するばかり。そうこうするうちに、水たまりは次第に小さくなり、それとともにわたくしの体も…。
お願いでございます。どうかあちらの池にわたくしを連れていってくださいませ。あちらに行きさえすれば、わたくしはもとの賀茂川に戻ってゆけるのです。完全に分断されたところを自力で歩いていくことは、性が水であるわたくしにはできないのです。よよよよ」
しおらしく泣き崩れる水の精を見て、斉信はニンマリした。
「なんと。そのようなことでしたか。おやすいご用です。人間である私には雑作もないこと」
斉信は、水の精の背中と膝の裏に腕を回し、ヒョイと抱き上げた(いわゆるお姫様だっこ)。
「さあ、落ちないように、私の首に手を回して…そう」
人間の足ならほんの三十歩ほどのその距離を、しっかりとした足取りで、池の方に歩いていく。
「さあ、着きました。
たった今出逢ったばかりなのに、もうお別れですか」
未練たっぷりにささやきながら、斉信はそうっと水の精を水面に横たえた。
女の姿が水面に溶け込む。しかしすぐに生き生きとした姿が現われた。
「ありがとうございます。おかげで生き返りました。あなたさまが救いの手を差しのべて下さらなければ、今のわたくしはありませんでした。
これは、ほんのお礼でございます」
差し出した斉信の手のひらに、十数個もの美しい小さな碧玉が残った。
「もうお会いする事はないでしょうが、感謝の気持は忘れません。さようなら」
水面に映る月が砕ける。あざやかな水紋を残して水の精は消えた。



「途中までは、不幸な姫君に救いの手をさしのべる公達だったんだけど」
「現実は、阿呆な妄想どおりにはならないさ」
牛車に揺られながら、斉信は本心とも思えないような芝居がかったため息をついていた。
「ステキな記念品もいただけたことだし、まあよしとするか。美しい細工物がつくれそうだ」
斉信は懐紙をそっと広げて碧玉を撫でる。玉どうしがころころと柔らかい音をたてて触れた。
「かぶら矢の装飾にしたらいい。流行ってるだろう?羽の下に水晶玉を通すのが。水晶のかわりにこの鮮やかな緑の宝珠だ。誰もまねできないぞ」
「いい思いつきだねえ。そういう美的感覚は、公任、おまえに聞くのが一番だな。つきあってくれたお礼に半分やろう」
「遠慮する。私は何も手助けしてないからな」
「退屈しのぎに酒をもってきてくれたじゃないか。楽しかったよ。ホラ」
と公任の手の中に、半ば強引に艶やかな碧玉を押し込む。
「今宵の思い出に」
「男二人でどこが思い出だ。気色の悪い」
「あいだに水の姫君をはさんだだろう」
「何が水の姫君だ。おまえの自己陶酔癖には心底降参だ。私は恐怖で足がすくんで動かなかったのに、おまえときたら女のもとに駆け寄っていっただろう。平常心にもほどがある。『千のほめ言葉をもつ男』の実力を今夜ほど感じたことはないぞ」
アハハハと笑いながら、斉信は残りの碧玉を懐紙に仕舞いこんだ。
「まだ少し酒が残ってるだろう?公任。飲み切ってしまおうよ」


(終)