鈴なり星

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仮面の女 その1

 

 

斉信の屋敷で碁を打っていた公任のもとに検非違使佐(すけ)がやってきたのは、夜も更けた亥の刻だった。緊急の知らせとて、本来ならば、次官である佐が、そのまま検非違使別当・公任を伴って検非違使庁へ戻るのだが、斉信がヒマを持て余していたため、
「佐がわざわざ別当殿の訪問先へこんな深夜にやってくるということは、緊急かつ重大な事件なのだろう?私は蔵人頭だ。知る必要があるね」
と、報告を聞きたがったのだ。
「おまえが知る必要があるかどうかは、話を聞いたあとで私と右大臣殿が判断する事だ」
と公任は部外者に知らせる事を渋ったが、「宮中で…」の佐の小さなひと言で、結局斉信に押し切られる形になった。
「たった今、内裏から死にかかった女官が検非違使庁に運ばれてきましたので、急ぎご報告に参上しました。周防命婦という女官です」
佐はそれ以上のことは言おうとしなかった。この先の話は、いかな蔵人頭であろうとも、許可なく聞かせないということか。
佐は、部外者にここまで言ったのだから、頼むから早く別当殿とともに検非違使庁に帰らせてくれ、という表情を浮かべている。
『死にかかった』とは、あくまで宮中での建前の言葉であり、実際は『すでに死んでいる』を意味していた。
内裏の局で死人が出たとなると、穢れの問題が生じ、各行事が中止あるいは延期されたり、公卿が参内できなくなってしまう。そういった混乱を避けるために、ごまかせる死者はできるだけひっそりと速やかに、内裏の外の検非違使庁へ引き渡される。そして「検非違使庁に着いてから死んだ」事にされるのが慣例であった。
今回の事件もまた、その慣例にのっとって、「死にかけていた女房が検非違使庁に運ばれてから死んだ」のであり、公任への緊急の報告とともに右大臣道長へも通達がいっているはずである。
「周防守の娘なのか」
からむ斉信をうるさそうにあしらっていた公任の声色が一瞬変わった。
「ご存知ですか」佐が答える。
「いや…よし、即刻検非違使庁に参る」
もとの声色に戻った公任が、すっと立ち上がった。
「待てよ、私も行こう」
「あほう、おまえは部外者だ、少なくとも今はな。もし今夜私がこの屋敷に来なかったら、おまえはこの事件を少なくとも今夜は知らずに済んだはずだ。どうせ早朝にでもおまえのところに報告がいくから、それまで待っていろ」
「昔の恋人の亡骸をまともに見れるのか」
歩き始めた公任の足が止まる。今にも斉信の顔を張り倒しそうな目で見ていた。
「そうだおまえは知っていたんだったな。ならば来い。ただし、正式に報告があがるまで他言無用だ。絶対に」
立ち上がった斉信が公任に追いつく。佐は二人の背中を眺めながら、今の会話もきっと他言無用なのだろうなあ、きっとそんな気がする…と思った。


雨気を含んだぬるい大気があたりを包む中、検非違使庁舎の奥に向かおうとする二人の後ろから、懇願するような検非違使佐の声が飛ぶ。
「どうかお止めください。お二人がお入りになるような所ではございません!穢れに触れてしまいますと明日からの生活に差し障りが」
「かまわない。この目で確認するだけだ」
止める佐を制して二人が入った部屋は遺体収容所だった。戸を開けると、莚(むしろ)の上に、黒髪を広げた葵かさねの袿姿の女が仰向けに横たわっていた。細い首にはヘビが絡みついているような青黒い筋が見えた。
もちろんとっくに死んでいる。軽い嘔吐感を覚えた斉信は、口元を扇で隠して目をそむけたが、公任はそのまま膝をつき、女を見下ろすように覗き込んだ。死後硬直で硬くこわばった美しい頬に、公任の影が落ちる。
「確かに本人だ。いったいどうして」
「内裏の自室で、天井の梁に腰紐をかけて首を吊っているのを、訪ねてきた同僚の女官が発見したんです。すでに大尉(だいじょう)や放免どもによる実検(検死)は済んでいますので、まもなく身内の方々が遺体を引き取りに来られます」
「わかった。実検が済んでいるなら遺体は引き取ってもらってもかまわない。一応有力受領の娘だ。自害なのか違うのか、物の怪のしわざか、何かの事件に巻き込まれたのかはっきりさせる必要があるだろうな。事件ならば、大臣殿と相談する必要があるが…ともかくそこを重点的にあたってくれ」
佐にそう命じ、きびすを返して部屋を出ようとする公任のあとを、斉信はあわてて追いかけた。重く湿った大気は、これ以上水気を含むのに耐え切れないかのように、雨を滴らせはじめている。五月雨の季節はまだまだ終わりそうになかった。



翌日、今度は斉信が公任の屋敷に向かっていた。朝、宮中へ出勤して後宮をそれとなくうろついてみたが、まったく騒ぎにはなっていなかった。しかしどこか空気がぎこちなかったのは、やはり緘口令(かんこうれい)がしかれているからだろう。それはそうだ。めだつ公卿が頓死したならともかく、ただの一女官の首吊りで、宮廷内の秩序調和が乱れてはならない。表向きはなごやかそのものだった。昨日まで周防命婦が住んでいた局はきれいに片づけられていた。周防守の身内か関係者が身の回りの物を全て持って帰ったのだろう。斉信が立ち寄った時には、もう空き部屋になっていた。周防命婦が、おのれの首を吊る腰紐をかけたという天井の黒い梁を見上げると、紐によるこすれがかすかに残っている。
そのこすれを見ていると、命婦の生々しい遺体の重みが直に伝わってきそうで、斉信はあわててその部屋を出たのだった。


公任の屋敷に向かう牛車にゆられて、斉信は、昨夜の公任の様子を思い出していた。
まだ公任が頭中将だったころに一時期通っていた女官、それが周防だった。当時はまだ半人前以下のウブな女官だったのに、どうしたわけか公任が通い始めて以来、さなぎが羽化するかのように、立居振舞にも歌詠みにも磨きがかかり、洗練された宮廷女官になっていった。蝶が花から花へ舞うように宮廷内を自由に行き来して、斉信自身も取次ぎに重宝していたものだ。彼らが付き合っていたのは公任が頭中将在任期間だけ。公任の人事異動に伴いそのまま自然消滅したと、記憶に残っている。
そんなことはよくある話で、公私に忙しい魅力的な宮廷女官には、別れた男を恨む間もなく次の殿上人たちが関心を寄せる。その女官が重要なポジションにいればなおさらだ。そんな女官の一人だった周防。いったい何が彼女の身に起きたのだろう。
そんなことを考えながら牛車にゆられるうち、公任邸に到着した。