鈴なり星

平安古典文学の現代語訳&枕草子二次創作小説のサイト

古今著聞集・恠異(怪異)2 583~587段

 

 

583段 後朱雀院、清涼殿の屏風の上に怪人を見る事

後朱雀天皇が崩御される前年のこと。
除目(じもく)の最中、清涼殿第五の間の奥にある四季屏風の上に、赤い組み紐を首にかけた巨人が現れた。誰かに見られているような気配を感じられた天皇の背筋は凍りつき、そのまま気を失ってしまわれた。
直後よりご発病、看病の甲斐もなく翌年崩御された。
天皇が御覧になった巨人は、石清水八幡宮の御神霊ではないかと世間の人が申していたそうな。


584段 崇徳天皇、亡き僧正増智の夢を見て後発病の事

崇徳院がまだ御在位であった頃…とはいえ在位晩年の保延六年の秋のこと。
ある夜帝は、白河の僧正だった故増智が参内した夢を見た。この増智、関白師実公の息子なのだが、帝は夢の中で柿色の水干姿の僧正と対面し、僧正は、
『…お久しぶりにございまする』
とかしこまって申し上げた。帝はその直後から原因不明の病に臥せられ、故人の魂を慰めるために朗詠や読経をさせた。ほどなくして病は快方に向かった。だがそれ以降、故増智の影はたびたび帝を悩ませた。
『…増智にございます』
と夢の中で名乗る怪僧の姿に、帝はずいぶんとうなされたらしい。


585段 治承2年6月、流星が地に落ちる事

治承2年(1178)6月12日の午後2時ごろ、南西の方角に彗星が出現した。その尾の長さは2丈(1丈は約3m)もあっただろうか。真昼間にも関わらず大きく光り輝く彗星は、何とも異様で不吉な光景であった。
治承年間は天変地異の多い年。流星多ければ大地震来るという言い伝えもあり、流星は非常に忌み嫌われた存在だった。


586段 治承4年4月、大辻風の事

これも同じく治承年間のことだが、治承4年4月29日の午後2時ごろ、恐ろしいほどの竜巻が吹き荒れた。
九条辺りで発生したその竜巻は京の都を吹き抜け、人家多数損傷し、七条高倉辺りには落雷、九条辺りには屋根をも突き破るほどの大きな雹(ひょう)まで降ったという。
数え切れないほどの多数の死者を出し、家屋も何もかもが竜巻の中に吸い込まれていった。この竜巻は方丈記にも、
「地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる」
と記録されている。


587段 蔵人の清長、虫狩りにて冠を吹き飛ばされる事

参議左大弁藤原定長の息子清長が、船岡山へ虫狩りに行ったときの話である。
虫狩りとは、松虫・鈴虫などの秋の虫を求めて、野山を散策する貴族の遊びなのだが、この清長が、同僚の殿上人たちと共に、秋の虫を求めて船岡を訪ねたとき、野原に怪しい突風が吹き、清長の頭の冠を吹き飛ばしたことがあった。皆は冠を追いかけずいぶん遠くまで捜しに行ったが、ようやく見つけた冠は、なんと野ざらしになっている人間の死体の頭部に乗っかっていたという。それは、あつらえたようにぴったりと、あたかも冠の主がこの死体であるかのように。同僚たちも清長本人も「なんと気味の悪い」とあきれかえったが、しぶしぶ冠を拾い上げて帰った。
その時の死霊の祟りか、あるいは死霊の予言か、清長は4、5年後に亡くなったらしい。