鈴なり星

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小夜衣7・東雲の宮(兵部卿宮)、本願叶った三日夜通い

 

 

嵯峨野からの帰り道、兵部卿宮の頭の中といえば先ほどまで抱き寄せていた山里の姫君のことばかり。
(五月雨にうつむいた真っ赤な撫子が、雨上がりの夕映えにきらきら輝いているようなみずみずしい姫君の姿…ああ、もっともっと見ていたかったな。今宵一夜逢えないだけでも苦しい、けれど嵯峨野までの道のりを考えると、思うように通えるのだろうか。満足に通えないとなったら、打ち解けてくれるまでには時間がかかるだろうなあ…)
ときめいたりくよくよしたり。切なさと気苦労から、宮は屋敷に戻るまでの間じゅう、ため息をつきっぱなしなのでした。
屋敷に戻るとすぐに硯を用意させ、夜が明けきらないうちに急いで手紙を贈りました。


『ほととぎす 語らうほども なきものを うたて明けぬる 東雲の空
(ほととぎすはまだ十分語り尽くしていないのに、無情にも東雲の空を見るとは) 』


さっそくの手紙に、待っていた山里の人々は安心しました。
「こうなってしまったからには、どうかご自身でお筆をお取りなさいませ」
と皆で言い含めても、姫君は夜具を引っ被ったまま起き上がろうともせず、何を言っても聞いてくれそうにありません。
仕方がないので今回も宰相の君が代筆で、


『いろいろ説得しましたが、相当まいっておられるようです。
こうなった以上、今後の宮さまのお気持ちが心配でございます。こまかな打ち合わせは、お目にかかりました上で相談したいと存じます』


と返事をよこしてきました。
山里の姫君の心の扉は開くのでしょうか。



これより、この兵部卿宮を、『東雲(しののめ)の宮』とお呼びします。

 




その日一日が暮れるのを今か今かとじれったく思っていた東雲の宮は、日暮れるやいなや嵯峨野に出かけました。こんな逢瀬は経験のないことで、草を踏み分け踏み分け歩むのも並大抵でない愛情の深さと言えるでしょう。山里の家では、宰相の君が、
「来訪の時刻は愛情のバロメーター。いつ頃来て下さるだろう。いえ、東雲の宮は本当に来て下さるのだろうか、もしやあれきりだったら…」
とハラハラしながら日が暮れるのを待ちわびていましたが、思いのほか早い到着だったので、宰相の君も乳母も心の底から安堵しました。
衣を引き被ったまま泣いている姫君を何とかなだめすかして起き上がらせ、涙ですっかり萎えてしまった衣裳を着替えさせ、汗と涙で乱れた髪を梳(くしけず)ると、また姫君は床に突っ伏してしまい、今度も衣裳に埋もれたまま、乳母たちを見ようともしません。
やがて姫君の部屋に案内された東雲の宮が、几帳の中の姫の傍に寄り添いました。
着替えたらしい衣裳はさっぱりとした夏の色で、姫の顔を自分の方に向けさせると、なるほど、うつむきがちではあるけれど、まわりの若女房たちとは似ても似つかぬ際立った美しさだ、と東雲の宮はうれしくなります。
恥ずかしそうに身をよじるその姿は、清純で上品な人柄が滲み出ているようで、宮の恋心はますますつのります。
「弱ったな。ここはなにしろ遠い道のり。心配性の両親がこのことを耳にされたらどれほどお叱りを受けるかな。もっと都に近い場所にお移し出来ないものか。そうすれば心置きなくいつでも逢えるが…」
もっと気軽な場所で、愛を交わしたいと思う東雲の宮でした。




本願叶って、一晩を山里の姫君と共に過ごした東雲の宮。翌朝は少し寝坊をしてしまい、ほんのり明るくなった部屋の外に、姫をひょいと抱き上げて連れ出します。昨日までずっと降り続いていた雨はすっかり止み、晴れ上がった夜明けの空が見えます。西の山に沈みかけている月と、東の山際の明けゆく風情が二人の恋を祝福しているようで、宮は、
「ご覧なさい、このすばらしい空の景色を。私たちの恋が、神仏からも認められた証(あかし)ではありませんか?」
とささやきます。顔によりかかった姫君の髪をそうっとかき分け顔を自分の方に向かせると、夜明け間近の明るさにさらされるのを大そう恥ずかしがって、姫君は身をよじらせてうつむこうとします。東雲の宮は、腕の中の姫君のそんなしぐさがたまらないほどいじらしく、絵に描き留めておきたいくらいです。
それもこれも、父母が毎日毎日神仏に手を合わせていた効験なのかな、と思うにつけ、この姫君が天も認める前世からの縁で結ばれた運命の姫なのだと確信し始めています。
ますます深まる愛情は、嵯峨野への遠い道のりをものともしません。通う夜が続くにつれ、山里の姫君も少しづつ親しみ慣れてきました。東雲の宮の優美きわまりない風情と、訪れるたび耳にささやかれる愛の誓いに、姫君の心も次第にほぐれてきます。しかし一方で姫君は、
(…宮さまの訪れが絶えてしまったら、お逢いしなかった頃に戻るだけなのに、前以上にさみしくなってしまうわ。殿方に慣れてしまうなんて、なんて見苦しい女になってしまったんだろう)
と自分の心の変化を情けなく感じているようです。
尼君はといえば、懸念していた東雲の宮の誠意が真実であったと安心したせいか、病状は少し快方に向かっているようです。
姫の将来も尼君の病気ももう大丈夫、と周りの女房たちは安堵したのでした。




さて、こうした毎夜毎夜の息子の夜歩きを心配したのが父院と母大宮です。謎の夜歩き先が洛外だと家来の者から聞き出し、それはそれは驚きました。
「ほんのひとときでもそなたが見えないと気がかりなのに、遥か洛外まで夜歩きとは、私たちが心配していないとでも思っているのか?」
「道中が心配でならないのですよ。それほどお気に召した女人がいるのなら、この屋敷に引き取ればいいではありませんか。それなら、はるばる危険な洛外まで出かけずに済むでしょうに」
呼び出しをくらってくどくど説教されます。この過保護ぶりがうっとうしくて仕方ないのですが、面と向かって反論することも、父母の心配を考えるとなかなかできません。
顔を見ればくどくど説教、出かけようとすると説教、あれこれ理由をつけて引き留めたがる両親。相手をするのも面倒で、自然と嵯峨野へのお出かけも減ってしまいました。
夜離れの日数が重なり、山里の家でも東雲の宮のことを、
「やっぱり単なる興味本位だったのかしら。当てにならないお気持だったこと」
と嘆いています。宮は、
「神仏に誓ってそんなことはありません。両親が心配するのが申しわけなくて、なかなか出かける事ができないのです。決して心変わりなど。それだけはご安心ください」
と言い訳めいた弁解の手紙をひっきりなしに送るしかないのでした。