鈴なり星

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古今著聞集・画図5 403~406段

 

 

403段 天福元年後堀河院らにより開催された貝合わせの事

天福元年、退位して間もない後堀川院とその中宮だった藻璧門院が、内大臣西園寺実公の豪邸・常盤井殿にて絵を賭け物にした貝合わせを開催した。
貝も素晴らしかったに違いないが、注目したいのは、賭け物として出された絵巻の規模の大きさである。
勝負に負けた女院がさし出した源氏絵巻の新作十巻は、彩色を施した料紙に美麗な絵が描かれ、料紙に貼られた色紙には、当代の能筆家たちが詞書を添えてある。
その後女院にねだられた院も、ご自分が用意していた賭け物の絵巻をさし出された。それは、藤原定家の一派が企画制作した大量の絵巻群だった。
まずは狭衣物語八巻。それから、夜半の寝覚め・浜松中納言・朝倉・海人の刈藻・玉藻に遊ぶ等の十の物語をそれぞれ混ぜて四季ごとに分け、ひと月一巻仕立てで全十二巻に仕上げた壮麗な絵巻である。
その他、蜻蛉日記・紫式部日記・更科日記・松浦宮物語などの日記や新作物語などを合わせた雑絵二十巻、後堀河院自身が(曽祖父の後白河院の)蓮華王院から借りた絵巻物を模写したものなどもあった。
左右の方から出された絵巻物は、女院方は唐櫃(からびつ)が一つ、院方が唐櫃三つ。中に収められた絵巻物は、両院併せて五十巻にも及んだそうだ。
負けわざ(合わせ物の敗者が勝者をもてなすこと)として、後日勝者の院が女院の饗応に招かれた。集まった殿上人たちは、女院が院から手に入れた数々の新作絵巻を臣下にも下賜二、三巻を近習の小童に持たせて殿上人らに下げ渡そうとした。もちろん皆嫌がって、古ぼけた絵巻物をやいのやいのと互いに押し付け合おうとする。その騒ぎがとても滑稽で、女院はたいそう楽しまれたという。
その後、絵巻物群は、女院腹の内親王方が所持することとなった。
内親王方が亡くなられると、やはり同腹の四条天皇のもとに収められた。
四条天皇崩御のあとは、女院の妹君の四条院内侍の督(藤原全子)の手に渡った。
その後の経緯はよくわかっていない。
天福元年の貝合わせからわずか20年。その間に絵巻物の持ち主は不幸にも皆夭逝し、そのため持ち主が次々と変わり、残念ながらそのまま散逸してしまったようだ。
持ち主の命は儚いものだったが、絵は次代へと受け継がれている。今でもどこかに眠っているに違いない。


404段 後堀河院、左京大夫信実に似せ絵を描かせる事

同じく後堀河院の話。
肖像画を描かせて楽しむのが好きだった後堀河院は、宮廷画家・左京権大夫信実に、院に仕える北面の武士や下臈・随身らの肖像画を描かせた。
その中の一人、検非違使尉で北面の武士の藤原永親の肖像画を描く事になった時、当の永親本人は何も知らずに北面に詰めていたが、着ている衣装は萎えらかな白襖(しらあお。上着、袴とも白)と、飾り気のないとてもシンプルなものだった。院からお呼びがかかった時、太刀を腰に帯びて参上したのは、院を警護する北面の武士として見上げた心がけであった。
院に近侍するこれらボディーガードたちは、身分に関係なく皆院のお気に入りの美形ぞろいだったと思われる。彼らの似絵を絵師に描かせ、ブロマイドのように収集し、時折り取り出して眺めてはにんまりする、そんな趣味が院政時期の権力者にはあったかもしれない。


405段 絵師賢慶が弟子、絵で六波羅を説得し勝訴した事

絵師として法眼の位を授けられた賢慶という僧の弟子の話。
師匠の賢慶が亡くなって後、未亡人となった故・賢慶の妻と弟子が遺産の権利をめぐって対立、弟子は六波羅に裁判を申し出た。
だが、日頃の案件の多さか六波羅の怠慢か、審議がいっこうに進まない。
業を煮やした弟子は策を考えた。弟子は故・賢慶の未亡人の日頃の淫らな振る舞いや、間男を引き込んでの現場などを実にリアルに彩色し、六波羅に持ち込んで直訴に踏み切ったのだ。
本来ならよくある所領問題の裁判のひとつで、審議も滞りがちなのが普通だが、エロ画を何枚も持ち込んでのアピールに、六波羅奉行たちは俄然興味を持った。訴訟の内容はこの際どうでもよく、未亡人の淫らな行いを事細かに描きあらわしたエロ画を、六波羅じゅうが見たがった。絵はついに国司までもが知るところとなり、弟子の訴えは十分吟味され、ようやく弟子は勝訴した。
その時勝ち取った所領に、弟子は今でも住んでいるらしい。


406段 光明寺入道道家が一条室町邸を修理した事

光明峰寺入道・九条道家が左大臣藤原実経のために、一条室町邸を修理したときの話。
道家は改装の際、邸内の装飾にかなりこだわった。
寝殿二棟の障子の絵はありきたりの唐絵では面白くないと、息子の関白・二条良実に頼んで、平等院宝物蔵に収められている大和絵屏風の名画を模写してもらった。
それらの名画は、武徳殿の競馬(くらべうま)の風景に古代風の衣装を着た人々がたくさんいるのが描かれてあったり、嵯峨野の御幸の図で帝が虎の皮を敷いた輿に揺られていたり、みな古き良き時代を彷彿とさせる絵ばかりだった。古来より、虎の皮は神の座を意味するそうな。かつては白河天皇も野の行幸の際に虎の皮を敷いた輿を用意されたとか。
当時、九条家と近衛家は交代で摂関を務めていたため、近衛家にも名画献上の依頼があった。
当主に代々伝わる屏風絵はすべて門外不出の宝物であったため、近衛家方は年中行事などの四季折々の風物を描いた宝物の屏風絵を模写し、ひと月一帖に描いた月次絵(つきなみえ)として新調し献上した。一月の絵には豊楽院にて行われた元日節会の儀が描かれ、八月の絵には延喜聖代における十五夜の月の宴を忠実に模写し、とやはり古きよき時代の風情を十分に感じることのできる逸品がそろって一条室町邸に収められた。
これらの屏風は、然るべき折々に客間に立てられ、皆の目を楽しませたという。