
短い逢瀬も終わりです。夜が明けぬうちに戻らねばなりません。
「浮舟。一晩語ってみたところで、納得できたことは何一つなかったよ。わだかまりも何一つ解けていない。それがつたない我が身への咎だとしても、やはりつらくてやりきれない。仏の道を求める心なら君に負けない。世を捨てた君と、もうすぐ世を捨てるつもりでいる私と立場は違えど、もっと心ゆくまで話したい。こんな離れた場所に君を居させたくないんだ。
君のお父上(八の宮)がご存命だった頃は、懐かしく通い甲斐のある宇治の山里だった。だが君が神隠しに遭って以来、その名を聞くだけでも恨めしく思うようになったよ。以前よりいっそう荒んだ気持ちにもなった。それでも、君と別れるこの暁の空が、二人の日々をこれほど追想させる切ないものだったなんて、私は知らなかったよ。
思ひやれ山路の露にそぼちきてまたわけかへるあかつきの袖
(山路の夜露に濡れながらやって来て、涙に濡れながらまたむなしく戻ってゆく私の立場を、どうか思いやってほしい)
もう帰らなければならないんだ。
浮舟、夜更けの露に袖を濡らしてしょんぼり帰ってゆく私のことを、君はどう思っているのだろう」
「……」
「浮舟、ひと言でいいんだ」
「露ふかき山路をわけぬ人だにも秋はならひの袖ぞしほるる
(それほど深い露でなくとも、しみじみとした秋の山路を歩く人は、とかく涙で袖を濡らすものだといいます)」
「ああ浮舟!
そんな通り一遍で薄情な返事が君の本心なのか?本当は違うのだろう?そんなありきたりの返事じゃなしに、もっと真面目に答えておくれ、お願いだ。とぼけたふりなんて、今さらしないでおくれ。心底滅入ってしまう」
薫は浮舟を説得し続けました。が、夜が明け始めるまでに戻らねばなりません。
薫は未練たらたら、切ない想いのまま急いで退出しました。
誰とはわからないような目立たない狩衣姿ですが、やはり高貴な身のこなしは隠しようもなく、露すだく山路を戻ってゆくその姿は、来た時と同じく、絵のような風情のある光景なのでした。
夜が明けました。
庵の老尼たちは、昨夜この仏間で入道の姫君(浮舟)といかにも身分の高そうな貴公子との間に何があったのか、興味しんしんです。皆、その辺りを歩き回りながら、貴公子のすばらしい芳香が移り残ったところを大騒ぎで誉めそやしています。
「殿方は藤の袴を脱ぎ置いたのかしらねオホホ、すばらしい移り香がそこここに残っていますわ、フフフ」
まるで、浮舟が貴公子の魅力に抗いきれなかったかのような、いやな感じの言い方です。けど無理もありません。都の人といえばたまにやって来る中将の君(庵主の亡き娘の婿君)くらいしか見たことがなく、そこへ目もくらむような美しい薫がやって来たものですから、興奮して大騒ぎするのも仕方のないことなのでしょう。
浮舟は老尼たちの勢いに気後れして、ひとり経読みに励んでいました。ほどなくして薫から手紙が寄越されました。もちろん浮舟は興味ない様子ですぐに見ようとしません。
庵主の尼君はじれったく思い、
「さあさあ、すぐにお返事なさいな。もう幼稚な態度はおよしなさいませ」
と手紙をほどき、広げて浮舟の手に持たせました。はなだ色の飾り気のない唐の紙は色めいた雰囲気などなく、出家した浮舟への薫なりの配慮でしょうか。
「今朝はぼんやりとしており何も考えられなくて。
たち返りなほこそまどへ長き夜の夢をうつつにさましかねつつ
(我に返ったあとも心は惑乱しています。煩悩の闇から目を覚ますことは難しい…)
あなたは以前より、もののあはれを知るようになった。目で見、耳で聞いたことを素直な情緒で感じ取れるようにもなった。なのに、この私には相変わらずの冷たい態度だなんて…勤行で心が清らかになったとはとても思えない」
すぐに返事を出すのも軽率なので、気にかけないふうにしていると、尼君が、
「お返事を差し上げないのですか?思いやりのないことをなさいますな。これほど誠実にお心をかけて下さっているのに、もったいぶって返事を遅らせるのは、いかにも世馴れた女のような態度に思えますよ」
とくどくど説得するので、浮舟は泣きながら手紙の端に、
そのままにまだ我が魂の身にそはで夢か現かわかれだにせず
(私の魂は、宇治の川に身を投げたあの時以来、いまだ我が身に戻っていませんので、昨夜のことが夢かうつつかよくわからないのです)
とさりげなく書いて文使いの者に渡しました。
使いが戻るのを今か今かと待っていた薫は、すぐに手紙をしたためて返した(本当は尼君に無理強いされての返事なのですが)浮舟の真心を愛しく思い、手紙を読みました。
出家したからといって急に風情も面白味もない色の手紙に返事を書けば、二人の事情とはかけ離れた不似合いな色となり、また薄様のいかにも恋文めいた艶やかな色の手紙であれば、それはそれでやはり不似合いな色となるでしょう。
浮舟はそんな紙選びの難問に、薫の選んだ色の御文の端に何気なく返事することで、見事に取りさばいたのです。
こんなに優しく細やかな心づかいは昔の浮舟そのままだ…薫はいっそう愛しく思うのでした。
さて、次にしなければならないのは、浮舟が母親宛てに書いた手紙を母親に渡すことです。
「常陸介の北の方(浮舟の母君)はみっともないほど喜び騒ぐことになるだろうな。無理もないが」
思いがけない展開に母親が大騒ぎすれば、浮舟失踪後の経緯がたちどころに世間の人々に知れ渡るでしょう。薫はそれが憂鬱でなりませんでした。