鈴なり星

平安古典文学の現代語訳&枕草子二次創作小説のサイト

狭衣物語48・追い込まれた入道の宮と狭衣の苦悩

 

 

落飾直後の女二の宮をこんなふうに追い詰めて、逃げられた事があったな――
狭衣は思い出していた。
あの時も月の美しい夜だった。
同じように鍵をかけ忘れた格子を開け、同じように寝所に忍び込んだのだ。あの夜はあと少しのところで逃げられてしまったが、今回はそうはさせない。絶対につかまえる。今夜の狭衣に迷いはなかった。
入道の宮は障子に掛け金をかけたらしい。きっちりと閉まって動かない。ここまで拒絶される我が身が狭衣は情けなかった。障子を破ってしまおうかとも考えたが、仏間の向こうは行き止まりの塗籠。狭衣は障子の前で、
「これ以上は近づきませんからご安心ください。今一度、私の想いをお聞きくださればよいのです」
逃げ道の無くなった宮にそう言い、初めて宮と契った夜のことから、行き違いが重なり続けてとうとうこんなにまでこじれてしまった二人の関係の口惜しさを切々と訴え始めた。
「これほどに思い悩んでいる私という存在を、あなたに知っていただきたかったのです。若宮の一件も、私を頼ってくだされば持てる力の全てを注いでお世話致しましたものを。あなたは私に目もくれず出家してしまわれた。あの時の私の衝撃を、あなたは何もご存知ありますまい」
狭衣は障子の向こうの宮に熱くささやき続ける。
「思い余ってあなたのもとに参ったあの夜のことは覚えておられますか?あなたは衣だけ残して私から逃げてしまわれた。帰るとき、遠くから赤子だった若宮の泣き声が聞こえた。あのときから私は、若宮を手元でお育てしようと決めたのです。自分から遠く隔てられた宮中には置きたくなかった。その愛情ゆえに、こうして出家せずにいられるのです。
私が一品宮と結婚するとき、あなたに手紙を差し上げた事をおぼえていますか?そのときあなたは紙の端に歌を書き散らして破り捨てた。確かにあなたの言うとおりでしょう。すべての不幸は私が引き起こしたのです。自業自得と非難されても何も言い返せません。それだからこそ、こうしてお目にかかる機会を待っていたのです。お目にかかって、私の心の底の底を見ていただきたかったのです」
涙にむせ返りながら、全てを言い切った狭衣に対して、障子の向こうにいるはずの入道の宮はといえば、身じろぐ気配さえない。
宮の無情さに業を煮やした狭衣は、障子と障子の間から畳紙を差し入れて、掛け金をはずす。ほんの少しだけ障子を開けて、
「私の思いのたけをお聞きくださいましたか。これ以上は開けませんから。
あなたが何を考えているのかお声が聞きたい。私を情けない人とあなたは思っておられるでしょうが、あなたの冷淡さもこの上なく悲しい。何か、何かおっしゃってください。あまりにつれないと、かえって私はあなたにひどいことをしてしまいそうです、この障子を破って」
狭衣は力強くささやきながら、何も言わずにうつむいたままの入道の宮の手を取って、宮の言葉を待つ。宮はただ一言、

『残りなくうきめかづきし里のあまを今くり返し何うらむらん
(憂き想いを我が身に背負った尼の私を、いつまでもそのようにお恨みにならずともよいではありませんか)』

汗に体もしとどに濡れ、今にも消え入りそうな小さな声で答えるだけ。
狭衣はその昔、まだ源氏の宮へ想いがつのるあまり、女二の宮を貰えと言われても結婚に踏み切る気持の湧かなかった頃の事を思い出していた。それが今ではどうだろう、この苦しさせつなさは。こんなに恋しいのに、尼にさせてしまって結婚できる可能性さえこの手でつぶしてしまった。契ることができないと思えば思うほどに、狭衣の目の前で宮の御髪が悩ましく揺れる。かつてはあんなにも長く豊かに狭衣の手にからみついた宮の髪は、今はもう尼削ぎの乾いた清らかさで、あの夜のしっとりしたなまめかしさはもうどこにも見当たらない。
あでやかだった姿を、こんなやつれた尼姿にさせてしまった罪は自分だけにあるのか?
と狭衣はおのが心に問うてみる。
いや、そうじゃない。冷淡にも全てを拒絶して生きると決めた宮にも、罪は無いとは言えないじゃないか。あなたが人生に絶望して出家した後、私は「あの狭衣は結婚してのうのうと俗世で過ごしている」と思われたくなくて、うとましくて仕方のない一品宮との夫婦関係を続けているというのに…
「――私はあなたをあきらめますよ、宮。ですがどうか、私を見捨てないで下さい。そして今の私と同じ姿がいつまで見られるかどうかを、よく見ていて下さい。今夜はそれが言いたかったのです」
出家の決意を告げた途端、泣きたくなるようなつらい気持がこみ上げる。

少し離れたところで、二人の一部始終をはらはらしながら聞いていた中納言典侍は、
”ああ今夜の狭衣さまもこの私が手引きをしたのだと、宮さまは思い込まれるに違いないわ”
とつらい思いでいっぱいだった。