九月。嵯峨院にて入道の宮が主催する曼荼羅供養が行われることになった。
法華八講も行われ、準備のため堀川大殿も嵯峨院に忙しく日参している。朝夕交替して誦する僧なども入道の宮が厳選し、厳しい修行に耐え声の特に良い者だけを選んだ。仏具の飾りなども、極楽の幻を見ているようなすばらしく凝ったつくりにした。入道の宮はそれらを眺めていると、気分がさわやかになり、身も心も集中して仏道に専念できるように思えるのだった。
狭衣大将も父大殿と同様に、嵯峨院にて供養の準備に追われている。これが入道の宮にとって、気分の晴れきれない唯一のことだ。
狭衣が嵯峨院に若宮を堂々と連れてくる。
若宮は、表向き嵯峨院の皇子だということになっているからだ。
真実は狭衣と入道の宮のあいだにできた子だ。この若宮が、嵯峨院のあちこちを遊び歩くさまは、入道の宮の心を動揺させるに十分だった。
十三日は八講の最終日。明るい十三夜の月の光が、あたりをくまなく照らし、入道の宮は月に導かれて聖なる須弥山(しゅみせん)の頂上まで昇れそうな心地だ。
花の時期は終わり、うちなびくススキの穂先に降りた露が重たげにきらきらと月光にきらめく。念仏の声に合わせるかのように、秋の虫の鳴き声があたりに満ちていく。その場に居合わせた人々は、伽陵頻(かりょうびん)という鳥が今にも極楽からここに舞い降りて、美しい声でさえずり始めるのではないか、と思えるほどの尊い一夜であった。
一連の行事が終わり、招かれた人々や僧たちが次々と退出していく。
だが狭衣はここに残った。
大井川からの川霧があたりに立ち込め、どこからか水の流れる音が聞こえる。その水音につられるように、狭衣は法華経の一句を読み始めた。若宮が狭衣の声を聞きつけ、一緒にいたいとせがみ始めたが、乳母に「もうおやすみくださいませ」となだめられる。
狭衣は若宮のそばに行ってなぐさめた。
「宮、私は今夜は帰りますよ。あなたはここで、入道の宮のもとでお過ごしくださいね」
「入道の宮はいつもいつも仏さまの前で、むずかしいお経というものを唱えているよ。わたしを抱っこしてくれたことなんか一度もないよ」
「そうですか…それはお寂しいですね。しかし私は今夜しなければならない事があって、堀川に戻らねばならないのですよ」
「じゃあ待ってる。明日の朝一番にここに戻ってきてね」
うれしそうな顔で約束する若宮の顔があまりに可愛らしく美しく、狭衣は、このまま若宮が月の神にさらわれてしまわないかと心配して「早くご自分のお部屋にお戻りくださいね」と言うが、若宮はなかなか狭衣のそばを離れようとしない。それならば、と狭衣は若宮にこっそりと、
「それではこうしましょう。わたしの用事をお手伝いしてもらえますか。入道の宮がいらっしゃる持仏堂の妻戸の掛け金を、そっとはずしてくれますか。
仏さまのお部屋のめでたさをちょっとだけ見たいのですよ」
「めでたくなんて思えないよ、あのお部屋は。こわいお顔の不動さまがにらんでいるもの。食べられてしまうよ」
若宮の、心から狭衣を心配している様子に、狭衣はたまらないほど愛しい気持でいっぱいになる。
「おそろしい顔でにらまれないように、そうっとのぞきたいのですよ。だから、ね?あのお部屋の西の妻戸の掛け金を、こっそりはずしてください。ね?」
若宮は何事か考えていたが、やがて乳母に連れられて自分の部屋に戻っていった。
持仏堂では入道の宮がくつろいでいた。
格子がまだ降ろされていない部屋の燈明のそばに、一大行事を無事終わらせた宮は穏やかな気持で座っていた。
彼女は几帳を移動させて、外がよく見えるように廂の方に少しいざって、西に傾いた月を眺めている。
月光に照り映えたその姿も髪の美しさも落飾前と比べて少しも色あせていない。そばにひかえている中納言典侍は、入道の宮のこのお姿を、「朝夕見続けたいものだよ」とグチをこぼす狭衣さまに今お見せしたらどれほど感動されるかしら…と感慨深く宮を見つめていた。
そのときふいに、経を唱える狭衣の声が聞こえてきた。
女房たちはその声に驚いて、「お帰りではなかったんだわ」「早く御格子を降ろさせて」などあわてている。入道の宮は狭衣に見られないように、燈明の光の届かない部屋の暗がりへといざった。
その後ほとんどの女房たちは自分の局へ戻ってしまい、中納言典侍だけが宮から少しはなれた場所に控えていた。
しばらくすると若宮がやってきて、そわそわと何か落ちつかないふうに歩いている。中納言典侍は驚いた。
「まあ若宮。まだお休みになられないのですか?狭衣さまとご一緒ではないのですか」
「それが狭衣さまをお探しするまでは寝ない、と」
若宮の乳母が答える。
「まあ…どうして若宮をほったらかしになさっているのでしょう」
とつぶやくと、
「だって『今夜は入道の宮のところでお休みくださいね、明日の朝お迎えに行きますよ』って大将に言われたんだ」
と若宮が答える。
「そうだったのですか。それでこちらに来てくださったのですね」
普段あまりこちらに近づこうとしない若宮の来訪をうれしく思う中納言典侍だったが、入道の宮はといえばまったくの無関心でこちらを見ようともしない。
若宮は無邪気にそこらを歩き回りながら、そっと御堂の妻戸の掛け金をはずした。
誰もそれに気付かない。
若宮は乳母に連れられ部屋から出て行った。
妻戸の軋む音がして、外に潜んでいた狭衣がためらうことなく忍び込んだ。間違えようのない薫りがあたりに漂う。
異変に気付いた入道の宮が顔を上げると、冠の影が近づいてくる。宮はもう真っ青になって、仏間の障子の向こうに隠れてしまった。