鈴なり星

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狭衣物語8・狭衣と飛鳥井姫君との出逢い

 

 

狭衣の中将は、源氏の宮に恋心を打ち明けて以来、心晴れることもなく、忍び歩きでもすれば立ち直ることもあろうかと、いろいろ気をまぎらわせようとしてはみるものの、やはりあの、源氏の宮の手をとらえた感触が忘れられそうにない。



ある日、宮中へ出仕したおり、東宮のもとへ出向いてお話し相手をしたとき、東宮が狭衣に尋ねた。
「あなたをめったに宮中で見かけないが、もう少し姿を見せてくれてもいいんだがねえ。あなたは始終、家の中で源氏の宮と会っている。たまには私にだって様子を聞かせてくれても、バチは当たるまいに」
「は。ここのところの暑さで少々まいっておりまして、ついつい出仕も怠りがちになったこと、申し訳ありません」
「暑いだけが原因とも見えないがね。あなたが年を追うごとにだんだん物悲しそうになってゆくさまが、私には、どうにも合点がゆかないのだよ。一体どうしたんだね。あなたなら、たとえかぐや姫に求婚したって相手が断るとも思えないがね。ふふん、なんとなく見当はついているよ。あなたは、宇津保物語の仲澄の侍従よろしく、妹分の源氏の宮に恋しているんだろう。
皆そう言っている。堀川大殿も、だから心配して源氏の宮の入内について私に冷淡にしているとみえる。どうだい。当たりだろう?」
狭衣は、この東宮の言葉にびっくりした。人々がそのようにうわさするまでになっていたとは。いや、これは東宮のハッタリではないか。
「そんなとんでもない恋ではありませんよ。私は、普通の恋愛さえ好みませんね。東宮のもとへ入内する姫君に懸想するなどというような、ややこしい恋を敢えてする?そこまでの色好みではありませんね」
狭衣は、興味なさそうに言い捨てたが、東宮は、
「隠すのかい?君のかたい態度でバレバレだよ」
からかうように言う。
「ははは。ひどいことをおっしゃいますね。あなたさまこそ、いつも女人のことばかりお考えになっているから、私のこともそんなふうに決めつけるのですよ」
と狭衣の乾いた笑い声がひびく。しかし心のうちは、急所を突かれたな、と収拾がつかなくなっていた。
そののち、東宮は女御である宣耀殿のほうへ渡っていった。狭衣はあとで宣耀殿の女御のもとに忍んでいこうと思っていたのだが、これでは仕方がないな、とがっかりして内裏をあとにした。



夕暮れの中、狭衣の牛車は二条大路と大宮大路の交差あたりを歩いていた。そのとき、女車が牛を新しいのに交替させようとしているのが見えた。
「遠方からの旅人であろうか」と狭衣が眺めていると、女車の窓が少し開いて、中に僧がいるのが見えた。「どう見ても女車なのに、僧が乗っているとはおかしなことだ。見間違いか?」みるみる女車は狭衣の牛車を追い越そうとしていく。狭衣の随身たちが女車を止めさせて声も荒らかに問いただした。
「こちらには堀川大殿の息子の狭衣中将が乗っておられる。牛車を見ればわかるであろう。さっさと道をあけぬか」
「申し訳ございませぬ。荒牛が慣れておりませぬゆえ、失礼を致しました」
僧は顔を隠しながら答える。そのまま車を降りて逃げようとしたので、随身が捕らえようとするのを、狭衣が「追いつめるな」と声をかけたので、逃がしてしまった。が、女車のそばについていた牛飼い童を問いつめると、
「あの人は、仁和寺で威儀師をつとめております僧です。長年懸想していた女人が、太秦にお参りにやってきましたので、そのままこっそりその女人を盗み出したんです。私だってこんな手伝いしたくないんですけど、逆らうとひどいめにあうので仕方なく」
と悲しげに答える。随身が、
「狭衣さま。いかが致しましょう。このような状態で女を車の中に放置しておくのはかわいそうではないでしょうか」
と聞くので、
「おまえたちはいつも私の止める声も聞かないで、勝手な事をするからこういうことになるのだ。しかし、たしかにこんな所に放ってはおけないな。牛飼い童に聞いて、車の中の女人を家まで送ってあげるように」
といった。
牛飼い童に聞いたところ、女の家は二条大路のすぐ近くだったようだ。日もすっかり暮れ、女はおびえて泣いているらしい。さきほどの僧はどこかに隠れていて、私たちが女を置いていってしまったら、きっと取り戻しにやってくるに違いない。女の様子を見てみたいが、もし、ここまでくる途中ですでに車の中で手ごめにでもされていようものなら、話を聞くのも気の毒なことだ。さてどうしたものか。『飛鳥井の宿り』の例えもある。我が家に泊めるのもどんなものだろう。
いろいろ考えたあげく、結局狭衣は、その女の車に乗り移って事情を聞くことにした。やはり顔は見てみたい。
「こんなところにあなた一人置いて逃げてしまって、ひどい奴ですね。でも、私が帰ったとみたら、またここに戻ってくるかもしれない。
本当に、あなたの意思でここまできたのではないのですね?」
狭衣は、努めて優しく女に声をかけた。女は、これほど親切に仰ってくださるのは一体どなただろうと思うが、気が動転していてろくに話すこともできない。そのうえ、めったに外に出た事がないので、自分の家の場所すらすぐには思い出せないのだった。
狭衣は、自分が想像していたよりは、女がずっとずっと可愛らしいので、親身になってやろうと思った。
「ああ。そんなに泣かないで下さい。まるで私があなたのお心にそぐわないことをしてしまったような気がしてなりません」
そんな試すようなふうに言うと、女はいよいよどうしてよいかわからず、ただおろおろと泣くばかり。それでも、
「…大宮通りと堀川大路のあたりと申しますか。某大納言さまのお向かいに、竹の多い家がございます。恐れ入りますが、お送りくださいますか」
とだけ返事をした。
狭衣は、この声の美しさ、気配の柔らかさに心ひかれた。一体どういう身分の人だろう。このまま同乗して家までお送りしてしまおう、と決めた。

女の家の近くまで来た。なるほど、確かに竹林の近くに入り口の細い家がある。門から人が出てきた。
「さて。着きました。おうちの方になんと申し上げましょうか」
狭衣は女に問うたが、女は何も言わず泣いている。仕方がないので随身に、
「太秦より参りました」と言わせた。
家人は、「ヘンですね。つい今しがたまで、女君が寺からお戻りにならないと、乳母殿がさがしておられましたよ」と答える。門番の部屋のあたりから蚊遣り火が煙る気配がして、なかなか風情がある。

『…この蚊遣り火の煙のように、あなたへの恋心もどんどん広がっていってしまいそうだ』

と女に歌で問う。女は、ようやく人心地ついて、今更ながらに狭衣の立派さに気が付いて、恥ずかしい心地がする。
「このようなみすぼらしい家に案内させてしまい、本当に消え入りたい思いでございます。さきほどの法師のことがありましたので、何も考えずにただひたすら家に帰ることだけを思っておりました。今となっては、こんな貧しい家の下に住むのをお教えしたこと、恥ずかしい限りでございます」
と弱々しい声で返事する。
車を母屋に寄せると、五十くらいの婦人が、
「まあまあ、今までどちらにいらしたのですか。侍女の大輔の君がお迎えに参りましたのが、遅すぎましたか」
とドヤドヤやってきた。狭衣にとっては、見た事もないような下品さである。とりあえず、「起きてください。迎えの人が参りましたよ。」と女に声をかけると、女は何かにつけてきまりが悪くて動けそうにない。狭衣が無理に引き起こさせると、女の薄紫色の衣も、額髪も涙に濡れて美しい。ひどく恥ずかしく切ないと思っている気配は普通の女の比ではなく、たいそう品があり可愛らしい。狭衣は、
『なんとも不思議な縁だな。こんな美しい女人に逢おうとは。いやしかし、あの法師がすでに手ごめにしてしまってたら。ああ気にくわない』
など思い乱れている。
「さて。無事お帰りになられましたね。用事が済めば私のことなどお忘れになるでしょうね。どうですか?できればお見捨てにならないで下さいよ」
と狭衣は笑うが、女の方は恥ずかしさのあまり大急ぎで車を降りようとする。狭衣はそれを制して、
「まだ答えを聞いてはいませんよ。いずれまた、あなたの家を訪れてもかまいませんか?」
と再度尋ねると、女は、

『…飛鳥井の私の家は泊りもできないようなせまい家なので、どうしておいでくださいと言えましょうか』

と歌で返した。狭衣はこのまま帰ってしまうのが惜しく、

『…飛鳥井にうつる美しい木陰のようなあなたに逢いにきたら、あの法師が出てきて文句を言うでしょうか』

と詠む。
「もうすぐ、最初に私の乗っていた牛車がやってきます。それまでの短い間だけ、あなたと一緒にいたいのですが」
と言い、女が「まあなんて見苦しい」と思っているのも狭衣は楽しく思う。家の女たちが「あんた誰なの?」と問う声も無視した。そのまま端近に出て、十六夜の月を眺めながら女の髪をかきやる。女の、月に照り映える容貌は不思議なほど美しい。妖しい心地に誘われるほどの気品がある。
まもなく、牛車が到着したが、こんな程度で帰れるはずもなく、「もし法師が来たら、また面倒な事になるでしょう」とか言い訳しながら、ずるずると居続けた。

これも前世からの因縁の深さか、狭衣は、こうして女君…飛鳥井姫君と契りを結んだ。飛鳥井姫君は法師に手ごめにされてはいなかったこともわかった。狭衣は、今までつきあってきた高貴な女人よりは、こういう女のほうがよほど素直で可愛らしい、となにもかもがたいそう新鮮に目にうつり、毎夜、人目を避けて飛鳥井姫君のもとへ通うようになった。