鈴なり星

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古今著聞集・画図4 399~402段

 

 

399段 伊予入道、幼少時不動明王の落書きをする事

伊予入道・藤原隆親は幼少の頃より絵が上手だった。彼の父親は、我が子の絵の才能をなぜか気に入らなかった。この父親は藤原隆能という著名な絵師で、現在徳川美術館や五島美術館に収められている国宝『源氏物語絵巻』の作者だと言われている。
たしかな才能を持つ父親が、何故息子の絵の才をよく思わなかったのかはわからない。
入道がまだ本当に小さかった時、家の廊下の壁にかわらけ(素焼きの器)の破片で不動明王の立ち姿を落書きし、放ったらかしにしていた。それが来客者の目に偶然とまり、客人がひどく驚いて、
「この絵はどなたが描かれたのですかな」
と主人の隆能に訊ねたが、
「ああこれはうちの愚息の落書きですよ。絵画のイロハも何も知らない子供がいたずらで描いたものでして」
とのんびり返答する。客人はいよいよ気色ばんで、
「なんとなんと。まだ何も教えておらぬのにこれほどの絵が描けるとは。生まれながらの天才とはその子の事を言うのですぞ。今後どれほど伸びるかわからない才能です。今後は落書きをやめさせたり怒ったりしてはなりませぬぞ」
と念を入れて主人に伝えたという。


400段 右大将頼朝、法皇秘蔵の絵の拝見を固辞した事

建久元年(1190年)に催された東大寺大仏殿の上棟式のため、源頼朝が鎌倉より上洛した。
法要のあと、後白河法皇は頼朝と会見し、法皇秘蔵の美しい絵画の数々を頼朝に見せようとした。
「由緒ただしき屏風絵・絵巻物なぞは、関東では見ることのできないものであろうから、その目でしっかりとご覧なさるがよい」
ところが頼朝は、
「法皇さまが門外不出とされている宝物の数々、どうしてわたくし如きが拝見できましょうか。恐れ多くて顔を上げることもできませぬゆえ、御前失礼させていただきます」
そう言い捨て、一見もせずさっさと帰ってしまった。
権力者の厚意を頼朝は必ずや喜ぶと思い込んでいた法皇は、一見もせずに退出していった頼朝を、あっけにとられた顔で見送ったに違いない。


401段 後鳥羽院、似せ絵の名人信実に御幸図を描かせる事

肖像画を得意とする藤原信実に、後鳥羽院が御幸図を描かせたことがあった。
「こんな名のある供奉人たちを選んで、こんな御幸にしたい」
と思い描く院の注文に従い、要望どおりの行列絵巻を、信実は絹の巻物三巻にわたって延々と、かつ華麗に描いた。肖像画の得意な信実であったから、供奉人として描かれた八条左大臣や右大臣の光明峰寺殿などは本人そっくりだった。
本来ならばこの御幸図をもとに、御幸の行事次第が執り仕切られるはずだったが、残念ながら御幸は実際には行われなかった。
予定だけで終わってしまったのか、あるいは文武百官を意のままに供奉させる、院の権力を絵画にして後世に残してみたかったのか、それはわからない。


402段 順徳院、琵琶に命名した鳥の名の由来を訊ねる事

順徳院が帝だったとき琵琶を新造することになった。
帝はこれから製作する琵琶に何と名づけようかと考え、楽所預・藤原孝道の息子孝時に、風俗歌や催馬楽の歌詞の中からふさわしい言葉で命名せよと勅命が下った。
孝時がいくつか選び出した中から「これがよい」という事で、琵琶の名は『大鳥(おおとり)』に決まった。いよいよ撥面の絵にとりかかることとなった時、帝はふと疑問に思った。
「そもそもあの『おおとり』は何という名の鳥を謡ったものなのだろう。誰か知っている者はおらぬか」
と控えている廷臣たちに訊ねられた。が、誰も知らないという。
ただ一人、源大納言通具(みちとも)卿が、
「この図案が『おおとり』ではないかと」
と言い、ふところに持っていた紙を帝にさし出した。
その図案の鳥は、ひよ鳥のような灰色で、目つきやくちばしの形が何ともおそろしげであり、しかも全体的にずんぐりとしたタマゴのような、やや不恰好な鳥だった。図案を見せられた帝は、
「これは何という名の鳥か。これが風俗歌の『おおとり』だと証明できる文献はあるか」
と再度訊ねられたが、通具卿は、
「昔から我が家に伝わる図案でございまして、私にも何かは…」
とだけしか答えられない。
「まったく、そなたは何を根拠にその図案が『おおとり』と同一だと言っておるのか。しかも図案の鳥の名さえわからないとは。勝手な憶測でものを言うではない」
と帝は不機嫌になる。そのあと院は琵琶の名手・孝道にも同じことを訊ねられた。孝道が、
「風俗歌『おおとり』に、おほとりの羽に霜降れり、とありますことから、もしや冬鳥の鵠(くぐい=白鳥)ではございませんか。あいにく、何かの文献にあったというような記憶もありませんし、口伝(文書に残さない秘伝)も聞いたことはございません。ですから、私は歌詞からの推測だけで申しております」
と答えたところ、帝は、
「なるほど、なるほど。もっともな推測だ。大きく優雅な鵠の羽に咲く、冷たく白い霜の花。『大鳥』にぴったりのイメージだ」
とうなずき、撥面の絵は鵠の意匠が正式に採用されることとなった。