鈴なり星

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狭衣物語6・狭衣、源氏の宮へ恋心を打ち明ける

 


やがて季節は変わり、暑い暑い夏がやってきた。
水を恋い慕う水恋鳥のごとく、源氏の宮に焦がれる狭衣の恋心は募ってゆく。することもない夏の昼、狭衣は源氏の宮が住む対の屋に渡った。
源氏の宮は白く涼しげな紗を着て、何か赤いお文を見ていたらしく、横を向いて座っていた。頭から背中の方までよく見えて、長く豊かな黒髪のすそが華やかに削いであるのがなまめかしい。薄物の単衣を通して見える肌の美しさが狭衣の目をとらえ、抱きしめてしまいたい想いを必死で抑える。
「暑くてたまりませんね。ああ、どなたからのお手紙ですか」
「斎院さまからですわ。絵をいただきましたの」
斎院とは帝の第一皇女で、先日の天人来臨事件の際、狭衣に賜る話のあった女二の宮の姉君である。
狭衣はくったくなく言う源氏の宮の、花の盛りのその笑顔を見るのが少し苦しくて、目をそらして絵をとりあげた。
「ああ、これは『伊勢物語』ですね。いい出来だ」
絵の中に、自分と同じように苦しい恋に身を焦がす在原業平がいる。業平の傍らの散らし書きの部分を読んでいくと、まるで自分と対峙しているような気になってくる。恋日記に惑わされたように、狭衣は源氏の宮に向かって和歌をつぶやいた。

『…業平の恋物語を見ていると、私だけが迷っている恋の道とも思えません。私は、あなたが…』

おしまいまで言えず、狭衣は源氏の宮の白い手をつかまえた。源氏の宮は突然の出来事にびっくりしてものも言えず、自分をとらえている狭衣の腕に突っ伏した。近くで見た源氏の宮は、いいようもなく柔らかで可愛らしい。ええままよ、どうなってもかまわないと、日ごろ抑えかねていた忍び心を打ち明けようとも思ったのだが、あまりに思いつめすぎていたので言葉がなかなか出てこない。出てくるのは涙ばかり。
「あなたがまだ幼くていらした頃からずっとずっと見つめ続けていたのですよ。あんまり長い間思い続けていたので、もう抑えられなくなりました。

『思い続けた長年と、長い間煙続けているという室の八島の煙とどちらが長いでしょうか』

あなたはご存知ではなかったようですけどね」
あふれる想いを訴える狭衣に、源氏の宮はあきれて悪夢を見る思いがする。
「そのような目でわたしを見るのですね。まるで他人事のように。ご安心ください。あなたが恐ろしく思うことは何もしません。このことを両親が知ったら、嘆く事はわかってます。もうあなたに逢うことはないと思いますが、こんなにも、あなたのことを恋い慕う者がいたのだということだけ、覚えていてくれればよいのです。あなたの愛情が今までどおりならば、私が死ぬ時の、この世のよい思い出になるでしょう」
急に人の気配がして女房がやってきた。ハッと我に返った狭衣は、何気なく絵を見るような手付きをしながらその場から離れて対の屋を出て行ってしまった。
源氏の宮は、急な出来事にあきれて身動きもとれず、ずっとそのままの姿勢で突っ伏していた。乳母の大納言が「いかがなさいました」と驚き、そばにかけよる音に、近くで昼寝をしていた女房たちが気付いて起きだした。
「あまりに暑くて、少しうたた寝を」「もうしわけございません」などと口々に言う。源氏の宮は、何も言わず転がるように奥に入ってしまったが、しばらくしてようやく正気に戻った。
『何と思いもかけないことを言う人を、今の今まで頼りとしていたことよ。こんなめにあうのも生みの親に死に別れてしまった不運さからだわ』
などと、生まれて初めて世の中の男女の現実を思うのだった。そんな、物思いに沈む源氏の宮の様子を乳母たちは、「ご様子がおかしい。どうなさったのかしら」と心配する。源氏の宮は、
『これからこの先、こんな気持ちで狭衣のお兄さまにお会いするなんて、恥ずかしい事だわ。こんな気持ちで生きてゆかねばならないなんて』
と、つらい憂き世をいまさらながら思い知らされるのだった。