鈴なり星

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狭衣物語5・天に愛でられし狭衣を心配する人々

 


「宮中でなにかあったのか。騒がしいようだが」
と堀川大殿が女房らに尋ねる。屋敷の蔵人の詰所に問い合わせると、家司が、
「内裏でしかじかの事件がございましたようです。したがって狭衣様は帰邸が遅くなるかもしれません」
と奏上した。大殿は、
「なんたること、なんたること。あまりの美貌と才能に、この世の人とも思えないようなわが息子ではあったが、天から迎えが来るとは」
と堀川上と共に、現実のこととはおもえないほど動転している。
「とにかく、一度参内して事態を伺わねば」
大殿は我に返り、大急ぎで参内の準備をする。母堀川上は、ただただ御衣を引き被って息を殺して泣いている。
大殿はただもう大急ぎで牛車を走らせていた。
あるいは狭衣はもう昇天してしまったのではないか、と考えただけで、胸もつぶれる思いである。参内の道のりがひどく遠い。
無我夢中で宮中に入ると、あたりは拍子抜けするほど静かであった。あちらこちらに焚かれている灯篭の火が、点在する下賎の者たちを照らしていた。皆一様に「天人の生まれ変わりの狭衣さまよ」「降りてこられた天人より、狭衣さまのほうが美しかったことよ」などわめいている。その様子に大殿は、もう狭衣は昇天してしまったのだ、と気が狂いそうになった。しかし、殿上の間の入り口に狭衣の姿を認め、安堵と共に涙があふれた。
大殿はようやく落ち着き、帝の御前にすすまれた。帝は不思議な出来事をありのままお話になる。大殿はすべて現実のこととも思えず、
「何事も、特別に言い教えた事はございません。男子たるものの必要最小限のことを世間並みに教えてきただけでございます。ましてや、琴や笛などの音楽は遊び半分にも習わせてはおりません。どうしてこのように世間の話題になるほどのすばらしい音を得たのか、私にはさっぱりわからないのです。神仏のお告げ、とでもいうのでしょうか」
と述べる。大殿はさらに続け、
「狭衣は、私どもにはたった一人の息子でございます。この世に生きていてくれるだけで十分なのです。身に余りある才能など要らないのです。そのような才能のために、我々親がどれだけ心配しておりますことか。もしそのような才能に惹かれてやってきた天人に昇天させられたとしたら、私ども親は明日まで生きてはいられませんでしょう」
この悲痛な言葉に、今上をはじめ居並ぶ人々すべて涙で袖を濡らす。狭衣は、すっかり後味の悪くなった管弦の宴に黙り込んでいた。そして今上の、

『…天の羽衣を着せなかった代償として、私の身に付けている羽衣を与えよう(女二の宮を与えよう)』

とのお歌に、狭衣はわずかに心を動かした。しかし、

『…今上の御厚意はありがたいですが、天の羽衣によく似た紫のゆかりの衣(源氏の宮)を下さるならば、私にとってはずっと着勝りがするでしょうに』

と返歌する。というのは、源氏の宮も女二の宮も、狭衣にとっては血縁の離れない間柄であるからだ。しかし今上はなんとか聞き分けさせようとする。


ようやく夜も終わろうとしている。皆それぞれ退出し始めた。狭衣も、父大殿と共に牛車に乗り込んだ。
狭衣が無事帰邸して、母堀川上の安堵はいかばかりであったろうか。心配のあまり、狭衣自身の御手水やら食事やら、身の回りのお世話を手ずから世話する。「今夜は私たちの母屋で過ごすようにしてくださいな。」と言うほど、ほんのちょっとでも狭衣から離れようとしない。
母屋に設けられた御座(おまし)で狭衣はぼんやりと天人の御子の面影を思い出していた。天上の世界がたまらなく恋しい。
『やはり自分はこの世に生き長らえない運命なのか』
とも思う。
やがて木幡の僧都が加持祈祷にやってきた。大殿などもつきそって、念入りに念仏を唱える。事件の事や女二の宮の降嫁など、今後のことを家司たちと相談する。狭衣はそれらの話を聞き、
『女二の宮のことは大変晴れがましいが、やはり私は源氏の宮が恋しい。同じ紫のゆかりならば、源氏の宮を妻にしたいのに』
と思い悩む。
夜が明けた。雨が降った後で、軒端に差した菖蒲が雫にぬれている。空は晴れ渡っていた。夜明けの山際が美しい。ほととぎすが、語りかけるようにさえずっている。
父大殿と母堀川上がやってきた。
「夜通し起きていたのですか。五月は忌むべきものが空を飛び交っているといいますのに」
「五月は悪月というからな。精進するように。僧どもにも、格別な祈祷をさせよう」
など言う。狭衣は、親がしきりに心配してくれるのがお気の毒だと思って、
「どこにも行きませんよ。ご心配なさらないで下さい」
とつとめて明るく答える。


しばらく宮中では、この事件の話で持ちきりだった。朝廷でも、この事件を記録に留めた。現場に居合わせなかった貴族たちは口惜しがった。