鈴なり星

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狭衣物語4・雨夜の宴、天使降臨を誘う狭衣の笛の音

 


中宮方は、特に昔のような端午(たんご)の節会などは行われない夜で退屈だった。
空模様も雨が降りそうな気配である。
つれづれの慰めに、東宮と共に今上の御前に参り御物語などを始める。御前には、太政大臣の息子権中納言・左兵衛督・宰相中将などの若上達部などが伺候している。そこに狭衣中将も加わった。
うっとうしい五月雨の夜空。帝は狭衣が来たのを喜ばれ、
「今宵の宴には、皆、己のありったけを尽くして琴や笛など奏楽申せ」
と仰せられる。東宮は、おもしろい一夜になりそうだと、ご秘蔵の楽器を居並ぶ人々に手渡される。中納言には琵琶、兵衛督には筝の琴、宰相中将には和琴、狭衣の中将には横笛、式部卿の宮の少将には笙の笛、などなど。彼らは当代きっての名高き上手でもある。さらに帝は続けて、
「各自、与えられた楽器を一人ずつ技の限り尽くすように」
と、仰せられる。
「私の腕前は、確かなものではないですが、皆が一緒に合奏すれば、自然と趣深く聞かれますからね。一人一人分けて、私が一人やれば、聞きづらいものになってしまいます」
「いやあそれより、なにがしの中将が一人で万事を演奏して、それを帝がお聞きになればよろしいんでは?」
と権中納言たちが冗談めかして言う。帝は笑いながら、
「狭衣は、一つの楽器の演奏さえ拒否しようとしてあれほど強情なようなのに、ましてや人の代わりの演奏なぞ、絶対に吹くまい」と狭衣を責める。
狭衣は、
「まことに不愉快なご希望をなされるものですね。こういう音楽の技は、本人が隠そうとして隠せるものではありません。私は、この方面は得意ではありません。大体、父大殿は少しも私に音楽を教えた事はないのです」
と笛を引き受けられないわけを言うと、帝は、
「いやいやどうして。そなたが秘密にしている楽才なども、私はみな聞いている」
と仰せられる。
狭衣は、めいめいが優れている中で、私などのようにまだ吹き方さえ知らない者の笛の音は、きっと調子がはずれてしまうだろうなあ、と思われて、笛に手も触れなかった。
狭衣が、以外に強情な様子なので、帝は、
「私は、そなたの幼い頃からそなたの父親に負けないくらい、そなたを可愛がってきたのだよ。それなのに、これくらいのつまらないことさえ、私の望みを聞いてはくれないのだねえ」
と仰る。
仕方がないので狭衣は畏まり、居ずまいを正して笛を取り、おぼつかなげに笛を持て悩み、
「笛の吹き方を存じませんで、他の楽器の音と混ざって合奏するのはいかがでしょうか」
とひどく困った様子である。
帝も本気で怒っておられるわけではないので、狭衣の困った様子をいじらしく思われる。他の人たちも、今宵は格別趣深い音楽会だと、お互いが張り合って交互に演奏するさまは、いつも合奏しながら帝がお聞きになられる音よりも、まことに興味深いものだった。
狭衣の笛の番がやってきて、帝は「さて、狭衣は吹くのか吹かないのか」とわくわくしておられる。そのお顔色がたいそう真剣なので狭衣は、「今宵の集まりがこのようなものだと知っていたら、参内しなかったのに」と後悔したが、笛を吹かなくては許してもらえそうにないから、初心者らしく笛を扱って、わざと、あまり知られていない曲を一つ二つ、吹いては止めてしまったのを、帝をはじめ、居並ぶ人たちは、
「評判には聞いてはいたが、これほどの音を吹く才能があったとは、よくぞ今まで聞かなかったことよ。口惜しや」
と感動する。狭衣は、
「これ以外はまったく存じておりません。この曲は、父が吹いていたしましたのを私が聞き取りましたのですが。父にはっきりと教えられた事もございませんので、どんなにか聞き間違いが多くございましょうか」
と言った。帝は、
「嘘つきは不愉快だな。そなたの笛はあの大臣には似てはおらぬ。その尋常でない音色は、いったい誰がそなたに伝授したものか」
と驚かれ、さらに、
「今までそなたのその腕前を、私に聞かせてくれなかっただけでも口惜しく思うのに。今宵は何としてでも私の心が満足するほどに吹奏しておくれ」
と無理強いなさる。
そのご様子に狭衣は本当につらく思う。今頃は、帝の皇太后宮の姫宮などもこの清涼殿のすぐそばの弘徽殿においでになっている頃であろう。そのような奥ゆかしい方にまで自分のつたない音色を聞かせてしまうなんて、と困惑気味だ。

月はとうに西の山の端に沈んだ。
御前の灯篭の火はあかあかと燃え、火にあざやかに映える狭衣は柱によりかかりて、困惑しつつ笛を吹き始めた。

その音色は雲の上まで澄み昇るようで、伺候している人々はもちろんの事、離れた後宮の人さえ笛の音に驚き涙を落とす。五月雨空が、なんとなく気味が悪い天候であるので、笛の音に誘われた魔物でも現れるのではないかと誰もが思うほどである。
この音を父大殿が聞きでもしたら、他人よりもいっそう不吉な事だと思うに違いないと、狭衣はつらくて涙が出てくる。
夜が更けてゆき、笛の音はますます澄み渡ってゆく。
やがて、中天の果てまで空じゅう残らず異様な雰囲気に包まれた。
急に寒い風が吹き、稲妻が光る。それなのに、星が月のように耀き始めた。御前の人々は、絶え入りそうな心地で身を寄せ合っている。それでも狭衣は、何かに取り憑かれたかのように吹き続ける。すると、不思議な音色が空に広がり、楽の音が聞こえ始めた。
帝・東宮をはじめ、御前の人々は「どうしたことか」とおののいている。そんな中で狭衣の中将だけが、日ごろめったに吹かない笛の音を、秘曲の限り、あますところなく吹き鳴らしながら、

『…稲妻の光をたよりに空へ昇ってゆこう。だから、広い空に雲のかけはしをわたしておくれ』

とつぶやいた。

月の都に願いが聞き届けられたのか。
空に広がって響く不思議な楽の音に惹かれ紫の雲がたなびき出したかと思うと、童姿の天の若御子が羽衣をまとって降りてきた。そして狭衣に近づき、かげろうの羽のような透きとおった羽衣を狭衣にかける。狭衣はこの出来事がこの世のこととも思えず、天人のすばらしい様子に心引かれてついて行ってしまいたい誘惑にとらわれる。狭衣は、帝や東宮に、

『私が幾重にも重なった雲の上に昇ってしまったら、あなた方は大空を私の形見と思ってくださいますか』

と、ひどくはかなくさびしい様子で問いかけた。狭衣は、天人と共に今にも空に昇ってしまいそうである。帝も東宮も、「決してそうはさせない」と、狭衣の手をつかんで離そうとしない。それを見た天人の御子も心苦しく思い悩む様子で、

「…何事につけても、狭衣は人間の世には度の過ぎた存在。その笛の妙なる音色にこらえかね天より迎えにまいったのに、このように帝が泣く泣く止めようとするので、今宵連れて行くことができなくなってしまった」

と言われる。狭衣は、
「以外にも残念にも、このように多くの束縛に引きとめられて、今夜あなたさまと共にゆくことができそうもありません」
と、空にむかって言う。
まもなく空の異様な気配は消えてしまった。
帝は、
「狭衣の、天人の生まれ変わりとの噂は本当のことであったか」
と改めて思う。
狭衣の中将は、天人の御子のめでたき姿がまだ目に焼きついて、面影が恋しく空の方をじっと眺めている。その狭衣の様子が、今にも天に昇ってしまいそうに感じられるので、あわてた帝は何としても狭衣の気をまぎらわせようとして、
「大臣に据える、といっても狭衣はちっともうれしくないだろう。ではどうすればよいのか」
とお思いになり、皇太后宮の姫宮三人のことを思いついた。女一の宮は現在の斎院であり、女二の宮はご容貌・お心ばえがたいそうすばらしく、帝のご秘蔵っ子であられる。その女二の宮を臣下に嫁がせる気持ちなどまったくなかったが、今宵の出来事に、
「私が泣く泣く狭衣を引き止めておいて、なんの恩賞も与えずに捨て置いたとしたら、まったくよくないことだ」
とお考えになり、
「この女二の宮の美しさを見れば、狭衣はもう天にも憧れることはないだろう」
と、女二の宮を狭衣に降嫁させようと思いつかれたのであった。