鈴なり星

平安古典文学の現代語訳&枕草子二次創作小説のサイト

古今著聞集・好色3 326~330段

 

 

326段 大宮権亮、女房の局で直衣を前後ろに着た事

どの時代のなんという何という公達だったかは存じませんが、とある大宮権亮(おおみやごんのすけ)が、親王と一緒にお出かけした帰り(還御)の出来事です。
大宮権亮というのは、皇太后職というお役所のナンバー2で、かなりの要職。若公達ならばエリートコースの官位というところです。
この親王一行、お出かけ先の方角が悪く、御所へ戻るためにはどこかへ泊まって方角を変えなければならないという事で(方違え)、とあるお屋敷にもてなされたのですが、一晩ヒマになった権亮は、こっそりこのお屋敷の女房の局に夜這いし、くつろぎまくっていました。
明け方、思いのほか早い御立ちの声を聞き、権亮は大急ぎで衣装を引っかけて出発したのですが、薄暗い部屋であせったのでしょう、直衣が前後ろになっていて、明るい朝日の中、それはそれはみっともなくもおかしな格好だったそうですよ。権亮は失笑を買うやら、どれほど恥ずかしかったでしょうね。



327段 野宮左大臣、内裏女房と本懐遂げる事

野宮左大臣公継殿が若かりし頃、内裏の某という女房をくどき続けていらしたのですが、この女房がなかなかなびいてくれません。辛抱強く口説き続けていた甲斐があって、ついにある夜、公継殿は見事本懐を遂げられたのです。公継殿は、晴れ晴れとしたお顔で女房の局から出て来られ、
「我が願い既に満じ、衆望また足れり(我が望みは既に叶えられ、人々の希望も叶った!)」
と法華経を唱えました。この声を隣の局の古参女房が聞き、くだんの女房に、
「あらもう許してしまったの?ね?そうなんでしょ?」
としつこく念を押すように聞いてくるので、
「あなたが思っているようなことは、していませんわ」
と言い紛らわしましたが、内心、
(ほっといてちょうだい。それにしても公継さまったら、誰もがわかるようなあからさまな朗詠しなくってもいいじゃないの)
と心の中でつぶやいたのでした。



328段 宮内卿、恋人と疎遠になった時に作りし歌の事

宮内卿という女房は、後鳥羽院から非常に高い評価を受けた女流歌人でした。真偽のほどはわかりませんが、甥の若公達とデキていたらしいのです。噂だけなんですけどね。
その親戚の恋人との関係が途絶えがちになったとき、こんな歌を詠みました。

都にも有りけるものをさらしなやはるかにききしおばすての山

信濃の更科という所には、姥捨て山というさびしい名前の山があるそうな…という表の意味の裏には、「おばの私は、彼に捨てられちゃったのかしらね」こんな思いも含まれているとか。



329段 大原の尼、男に遇ってその後身を隠す事

とある男が大原の里を散策していたところ、とても住みやすそうな庵を見つけました。
こじんまりとしていますが、行き届いていてなかなか素敵です。
庭に入ってみると、庵の主人とおぼしき尼がただ一人いるようです。
前世からの因縁だったのか、女の匂いに魔が差したのか、ムラムラとしてしまった男は、その上品そうな尼に無遠慮に近づき、力ずくで乱暴をしようとしました。尼は驚き、その場を逃げようとしましたが、あたりに助けてくれる人もいません。激しく抵抗して殺されるよりはマシと尼は観念し、男のなすがままになったのでした。
コトが終わり、ハッと我に返った男は、自分の身体の下で泣いている尼にようやく気がつきました。男は申し訳なさでいっぱいになりました。尼が憐れでもあり愛しくもあり、それからしばらくの間、この庵に居候していましたが、いつまでも住み続ける気は毛頭なく、適当な言い訳をして帰ってしまいました。
2、3日してから、「ああ、あの尼はどうしているかな」と気になった男は、また大原の里を訪ねました。
あの庵はもとのままでしたが、あるじの尼が見当たりません。どこかに隠れているのだろうかとあちこち捜しましたが、結局、尼はどこにもいませんでした。
男は、尼と初めて契った場所に歌を書きつけました。

世をいとふついのすみかと思ひしに猶うきことはおほはらのさと
(世捨て人の隠れ住むという大原の里だが、この俺をも捨ててゆくとは)

尼の行方はとうとうわからずじまいでした。
魔が差したゆえに乱暴な振る舞いをしてしまった男でしたが、それなりに恋慕の気持ちはあったのですね。



330段 慶澄注記の伯母、好色で成仏できなかった事

比叡山延暦寺に慶澄注記という僧がいました。
この僧の伯母というのがたいそう風流のわかる女で、男性経験も実に豊富でした。
あるときこの女が病気になり、余命いくばくもない状態となったのですが、枕元に集まった親族が、極楽浄土へ生まれ変わるための念仏をすすめても、女は唱えようとはしません。枕元にあるさおに掛けられた物をとろうとするしぐさを見せますが、とうとう女は息絶えてしまったのでした。亡骸(なきがら)は法性寺辺りに埋葬されました。
それから二十年あまり経った建長五年(1253)頃、お墓を引っ越すために女の墓を改めたところ、棺らしきものや装飾品などが、どこにも見当たらなかったのです。
不審に思った親族たちが、墓の土をさらに深く掘り下げてゆくと、油のようにぬめぬめと光る黄色い水のようなものが、土から滲(し)み出てきました。すくってもすくっても、黄色い水は滲み出てきます。結局、土を五尺(一尺は約30㎝)ばかりも掘ってしまいましたが、どこまでいっても黄色い水はなくなりません。
ようやく棺らしきものの手ごたえがありましたが、とても掘り出せそうにありません。手を突っ込んで探ってみますと、頭蓋骨の一部が一寸(約3㎝)ばかり残っていたのでした。
仏教では、女人とは生まれながらに穢れを持つ身。男性経験が多ければ多いほど、罪も深くなるといいます。その罪の深さが、延々と滲み出る不気味な黄色い水となって現れたのでしょうか。
この女の母親の墓も同時に改葬しましたが、女よりもずっと早くに埋葬していたにもかかわらず、女の棺の傍らで、同じような状態だったということです。