鈴なり星

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古今著聞集・能書2 291~293段

 

 

291段 行成の子孫行能が音楽堂の額を依頼された事

法深房(藤原孝時)は、管弦の道場として自分の持仏堂を開放し、そこには同好の士たちが絶えず出入りしていた。
ある日、堂の名『阿釈妙楽音寺』を書いた額を作製するべく、建長3年(1251年)8月13日、三位入道寂能(藤原行能)のもとに出向いた。
この行能は名筆家行成の7代目子孫で自身も大変な能筆で知られていたが、この頃は重い病気にずっと臥せっていた。
寝たきりの状態で苦しそうな息をしている行能に、法深房は大変驚き、
「これほどまでにお悪いとはまったく存じ上げておりませんでした。お願いしたいことがあってお伺いしたのですが、まずはお体を養生なされませ。回復なされましたら、また改めてお願いに参上致します」
「いえいえともかくご用件をお聞きしましょう。きっとこれが最期の対面になるかもしれませんので…」
乞われるままに法深房は楽音寺の額の件を説明した。
法深房の話を聞きながら、行能は手を合わせ泣き始めた。
「このお話について、たいへん不思議な因縁があります。
何年か前、近江の国より参られた僧に額を依頼されたことがありました。ひどく荒廃した寺を何とか修復して、寺と同様に荒廃している周囲の土地を少しでも豊かにしたい…その僧の話に心を動かされたものですから、寺の門に掲げる額を作製したのです。4、5年経ってからその僧が再び来られまして、
『おかげさまで寺は再興し、周囲の寺領も平和になりました。よかったよかったと安堵しておりましたところ、先日の夢に、
”すべての喜悦は件(くだん)の額の霊験なり”
と告げる者が現れまして。
それであなたさまに一言だけでもお礼を申し上げたくて参上致しました次第でございます』
と手を合わせに参られたのです。
それっきりその話は思い出さなかったのですが、数日前…そうですね、8日の明け方でしょうか、病にかかった私の夢の中に天人とおぼしき人が、近江の僧に書いた額を持って現れて、
”この額の文字損じたる、直し給え”
と私に手渡しなさいました。
確かに私の書いた額です。文字の一部が少し消えかかっており、私は夢の中で修理しました。
直した額を受け取られた天人はとても喜んで下さり、帰り際に、
”5日以内に額のあつらえを依頼に来る人物がいる。書けば極楽往生の機縁となろう”
と告げられたところで目が覚めたのです。
私は一日一日と待ちました。そうして夢の中の天人のお告げどおり、5日目来られたのがあなたなのです。
この額は精進潔斎してから取りかかりたいと思います。天人のお告げのあった額なのです。よもや完成する前に死ぬことはありますまい」
行能は泣きながら喜んでいる。彼はさらに続けた。
「世間広しと言えども管弦の道においてあなたさまの右に出る者はおりますまい。同様に、書の道において我が世尊寺流派が第一であると自負しております。
実は、このたび帝(後深草天皇)の閑院内裏への遷幸で、年中行事の障子を書くよう宣旨が下されましたが、当主の私はこのとおり病気で書くことが出来ず、息子の経朝に書かせようにも関東に出向いており不在。それで古くとも由緒正しき障子を用意させたのですが、閑院内裏を再建した(鎌倉)幕府方が、
『新築の内裏に、古いもので間に合わせるのか』
と文句をつけてきまして。どうしても世尊寺流派の新作の書で新築の里内裏の障子を飾りたいと言うのです。
何でもよいから世尊寺流の新しい書を、と言われて用意させたのがまだ年齢九つの経尹(つねただ。経朝の子)に書かせた障子でした。
以上のことから、管弦においては朝廷の公私の御用を立派に務められるあなたさまと同様に、我が世尊寺家も朝廷の大事をこなすことの出来る当代一の書のブランドだと思われるわけです。
あなたさまのご依頼、極楽往生へのかけはしと思い、心を込めて務めさせていただくつもりです」
この話は『古今著聞集』の編者・橘成季が法深房から直接聞いた話である。夢のお告げなど一連の事情が書かれた行能の書状の実物を見せてもらったそうだ。

292段 行成・伊房・佐理の能書の誉れの事

書の名人で知られた藤原行成が内裏で行われた扇合わせに出席した時のこと。
扇合わせとは、参加者を左右二組に分け、それぞれが持ち寄った扇の骨・紙質・描かれた絵や和歌などを競う優雅な遊び。選ばれた人々は贅を尽くした扇や奇抜な扇を披露したが、行成卿は、黒い骨に黄色の唐紙を貼って両面に自筆で楽府を書いた扇を披露した。(一条)天皇はこれを見て「他のどの扇よりこの扇がうるわしくめでたい」と大変喜ばれたという。


この行成卿の孫にあたる帥の中納言伊房もすばらしい能書家だった。彼は、藤原一族の氏神である春日大明神のお告げにより、お経を収める経堂に掲げる額を一枚作製したのだが、出来上がった額を今すぐ掲げるような経堂もなかったので、
「必要もないのにお告げがあったのは、何か事情があるのだろう」
と思い、額をそのまま仕舞っておいた。
その後、伊房が死んで何年も経った。
ある年朝廷で一切経(仏教の大事典)を収める書庫が作られ、その経庫に掲げられる額が必要になった。
「ああ、故伊房殿の夢のお告げはこの日のための神慮だったのだなあ」
と皆感動したとか。


昔、藤原佐理が太宰大弐だった時、任果てて帰京の途中、瀬戸内の伊予あたりで船が動かなくなった。その時、佐理の夢に大山祇(おおやまつみ)神社の三島明神が現れ、
『よろづの社にかかりたる額が我が社にはあらず。書の名人たるそなたが書き給え』
と告げたという。
佐理は精進潔斎したのち三島に上陸し、
『日本総鎮守大山積大明神』
と書いて奉納した。
このことにより、佐理の能書家としての名声はさらに高まったという。長徳3年の出来事である。

293段 弘法大師が『五筆和尚』の由来の事

弘法大師空海がまだ中国の唐にいた頃の出来事。
長安の宮廷に、書聖と讃えられた王義之の書が掛けられていたが、痛みが激しく修復することになった。だが、達人の書を汚すことを恐れて誰も直そうとしない。その時同じように声をかけられた大師が、両手両足口に筆をとり、もとの書を一気に修理した。
『五筆和尚』の由縁だ。
これには別の説もある。草書・梵書・八体など、さまざまな書体を自由自在に使い分けた大師。その多彩さゆえに『五筆和尚』と讃えられたという。