鈴なり星

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狭衣物語3・狭衣と飛鳥井姫君との出会い

 


やがて四月も過ぎ、五月になった。
ある夕方、狭衣の中将は内裏から帰る途中、往来を行くどの男も菖蒲の根を腰に下げているのを見た。貴族や町家に売り歩く田舎男共だ。菖蒲を持ちすぎてもてあましているさまに、

『…あれほどたくさん菖蒲を取るからには、どれほど苦労したことであろうか。見れば、どの男たちも足元がひどく汚れている』

と驚く。菖蒲の根を見るにつけても源氏の宮が思い出されて仕方がない。

狭衣の乗っている牛車の前を、顔も見えぬほど菖蒲に埋もれて歩いている賤男がいた。
牛車の歩みを邪魔する格好になっていたので、随身たちが声を荒げて男を追い立てるのを、狭衣は中からながめて、
「重そうに歩いているのを、そんなに言うものではない」
とやんわり言う。随身たちは、
「貴人の前を堂々と邪魔して歩く者など、こうしてやればいいんですよ」
と、勢いづいて答える。聞き苦しく情けないことを言うものだ、と狭衣はためいきをついた。重い菖蒲を持ち歩く男の苦しさが、まるで源氏の宮を思う苦しさに重なってみえるようだ。
いろいろな屋敷が菖蒲を葺(ふ)くのに大騒ぎだ。その様子を牛車の窓から眺めながら、狭衣は、とても小さな庵に菖蒲がたった一筋置いてあるのに気が付いた。ひどく不自由な生活をしているようなみすぼらしい家だが、それでも風情な気持ちがあるのだな、と狭衣は感心し、横笛を取り出し忍びやかに吹き鳴らし始めた。夕映えが窓から射しこみ、まことに光る美しさである。
只者とは思えない牛車の様子と笛の調べに、「どなたが乗ってらっしゃるのかしら」と家々の中から女房たちの騒ぐ気配がする。どこかの若い女房が一人、軒端の菖蒲を一筋引いて文を大急ぎで書いて、みめよい女童に持たせ、牛車を追わせた。女童は随身に導かれて狭衣のところへいき、文を見せた。

『…あなたはどなた?葎で荒れた我が家の門に、立ち寄っていただきたいものですわ』

とある。狭衣は、色好みの女性もいるものだなあと思いながら微笑んで、
「こんな物好きな方は、どこの誰だい?」と聞いてみるが、女童は答えない。狭衣は仕方ないので懐から金泥の経紙と取り出し、かたかなで、

『…どの家も一様に菖蒲が差してあるものですから、あなたの家の見分けがつきませんね。改めてお尋ねしましょう』

と文に書き、女童に持たせた。女童の帰るさまを見て、供の者に「童のあとをつけて確認してまいれ」と言い渡した。

「こんなぶっつけの恋愛もあるのだな」
と狭衣は思うが、それにつけても禁じられた源氏の宮への恋心が、狭衣を苦しいほど追い詰め焦がれさせる。
自分は、気軽な恋愛に逃げているのだろうか。



明けて翌日の五日、狭衣はしかるべき間柄の人たちのもとへ、薬玉に添えてお文を贈った。
紙の色、それに描かれた下絵の趣など、人より優れたお手紙の様子がはっきり表れ、贈られた方々が夢中になりそうである。
左大将の娘で今は東宮の女御であられる方が、宣耀殿女御としてたいへん羽振りをきかせられていたが、どういう機会があったのか、狭衣中将にほんのすこし逢ったことがある。だが東宮女御の身、どうして狭衣の思うままにできようか。お文を交わす事さえ難しい。ままならない逢瀬に狭衣はいっそう思いが募る。
上皇の姫君(東宮の御妹)も、以前お会いした時の並み一通りでない気品ある様子に、狭衣は「姫宮のご容貌をもっと近くでみたいものだ」と焦れている。姫宮付きの女房で少将の命婦のもとに、姫宮あてのお手紙を贈られた。

『…沼の菖蒲が水の中で人知れず朽ちてゆくように、私の恋もあなたにお伝えできぬまま朽ちていってしまうのでしょうか』

このように、狭衣からのお文は今日一日で多くの女人のもとへ渡ったが、同じような内容なので詳しくは書かない。
けれど華やかな交際とはうらはらに狭衣自身は、ひたすらに源氏の宮のことのみを思い打ち明ける事もできず、ただただ心細く池の菖蒲の涼しげに群れているのを眺めているだけ。
女人たちのもとからお文の返事が返ってきた。
たくさんのお手紙の中で、宣耀殿の女御の手蹟がすばらしい。内容も、東宮に比べて、狭衣の事を粗略には扱っていない様子である。狭衣は、もしや宮中に参内した折に、宣耀殿にお会いできる機会があるかと密かに期待するのだった。
ある日、宮中に参内するため、まず父堀川大殿のもとへ伺った。
「内裏よりお召しがありましたので、行ってまいります。中宮のご様子を見て参ります」
「中宮がご病気であられるそうだな。私も心配で、ご様子が気にはなっているのだが、私自身も風邪でな。今上が宿下がりをお許しになって、宮中退出の許可を与えてくださればよいのだが」
と大殿がつぶやく。
狭衣は、金銀で模様を浮き出しにした象嵌の紅の単衣、その上に同じ紅の直衣、色の濃い紫地に唐撫子を織り出した模様の指貫を着る。その姿はすばらしくあでやかでなまめかしい。お召し物を身にまとった狭衣をごらんになった母堀川上は、
「なぜ、こんなに気にかかるほどに成長したのでしょう。ただ世間に普通に見られるような人のようであったら、着を揉む事もなく安心していられるでしょうに」
と涙を浮かべる。狭衣が出て行った後、女房たちも上と同じく「ご心配されるのもごもっともですわ」「狭衣さまは、なんだか恐ろしい程までお美しくご成長なされました」と騒ぎ立てるのだった。